当コーナーでは、地方競馬に関するイベントや注目レース等の気になる話題を写真と共にご紹介します。

最年長勝利記録達成 山中利夫騎手(金沢)

2012年05月24日
取材・文●斎藤修
一番忘れられない勝利
悔いのない46年の騎手人生


 現役最年長ジョッキー、金沢の山中利夫騎手が5月6日、金沢競馬第1レースでブライアンズメテオに騎乗して勝利。福山の津曲照男元騎手が1996(平成8)年6月3日に達成した61歳8カ月という、記録に残る限りでの最年長勝利記録を更新。62歳9カ月での勝利となった。
 山中騎手は、これに先立つ2011年6月5日、61歳10カ月と25日で、同じく津曲元騎手の最年長騎乗記録を更新していた。次いで最年長勝利記録の更新が期待されていたが、2011年1月3日以来、1年4カ月ぶりの勝利が待ちに待った記録達成となった。

兄弟子を越えての記録達成

 昨年、山中騎手は最年長騎乗記録の更新と、1967(昭和42)年のデビュー以来2800を超える勝利数などが評価され、日本プロスポーツ大賞・功労賞を受賞している。
 「あの表彰式はよかったよ。白鵬やらテレビで見るスーパースターばっかりいるところで賞をもらったんだからね。地全協からも理事が来てくれて、ほかにもたくさんの人が来てくれた。そのときに、『来年勝って、最年長の記録を』って応援してくれて、騎手やっててよかったわと、感激して帰ってきた」
 実は山中騎手が最年長騎乗記録と最年長勝利記録を意識したのはそれほど前のことではない。山中騎手がデビューしたのは大阪・春木競馬場で、津曲騎手はその春木では直接の兄弟子だった。金沢所属となっていた山中騎手は、津曲騎手が福山で引退するときのことは、“最年長ジョッキーの引退”として全国ニュースで放映されたのを見てよく覚えているという。ところが山中騎手は、この津曲騎手の引退が64歳だったとずっと勘違いしたまま記憶していた。
最年長勝利記録達成時に騎乗したブライアンズメテオ
(写真は5月13日騎乗時)
 「そのときオレはまだ40代で、(津曲騎手は)64歳まで乗ってたんか、さすがに64歳までは乗れんぞ、と思い込んでたわけや。それが一昨年(2010年)11月ごろ、北國新聞の記者が取材に来たんや。『成績もよくないし、オレを取材して何すんのや』って言ったら、記者が『山中さん、来年(2011年)の6月になれば津曲さんが持ってる最年長記録を更新できますよ』って言うわけ。地全協でも記録を調べてもらいました、ってね。『えっ!それなら来年(2011年)7月で62歳やし、記録達成できるわ』って言ったら、そのあと話がどんどん大きくなって、新聞やら週刊誌やら、取材がたくさん来た(笑)」
 そして最年長騎乗記録に続き、今年5月6日に達成されたのが、最年長勝利記録だった。
 「あのときは一番下のクラスで、相手もそれほどでもなかったから、勝てるやろうとは思ってたんや。それでも最近は数をあまり乗ってないから、あの馬で勝ててほんとによかった」
 山中騎手の所属厩舎で、そのブライアンズメテオを管理する井樋一也調教師は、山中騎手から学ぶことも多いという。
 「(普段乗っている)馬の状態面とかは自分より把握してるし、飼葉はこれをやったほうがいいとか、いろんなことをアドバイスしてくれます。調教は、1日に5~6頭乗って、体を調整しているようです。ここまで騎手としてやってきたというのは尊敬しますね。(記録を達成したときは)勝ちにいってるなと思いました。馬の状態もよかったんですけど、山中さんの好騎乗もあったと思います。62歳と思えないような、豪快なレースをしてくれました。馬に乗ると若く見えるし、年齢を感じさせないところもあります」
 そして5月13日には金沢競馬場で、国内最年長勝利記録更新表彰式が行われた。山中騎手は「これからもひとつひとつ多く勝てますようにがんばりますので、ファンの皆様、よろしくお願いします」と挨拶。最年長騎乗&最年長勝利記録のさらなる更新に意欲を語った。

デビュー4年目にリーディング

 ジョッキーとして46年のキャリアを重ねた山中騎手は、昭和から平成にかけての地方競馬の浮き沈みを経験してきた。
 山中騎手は1949(昭和24)年7月11日、大阪府岸和田市で生まれる。近くには春木競馬場があった。18歳離れた兄は大阪(長居)競馬場で騎手をしていて、近所の親戚には馬主も何人かいた。小学生のころには、母に連れられて大阪競馬場に兄の応援にも行ったという。
 1959(昭和34)年に大阪競馬場が廃止になると、兄は春木競馬場に移り調教師となった。中学生になった山中少年は、休みの日には兄の厩舎に行って攻め馬などを手伝うようになる。
 「競馬場に友達を連れて行くと、兄貴が『トシ、これでなんか食べてこい』って、1万円くれるんや。当時の中学生に1万円やで。大卒初任給が3万円の頃や。競馬場に行って手伝いをすれば、いいもん食わしてくれるわ、小遣いくれるわ、当時の競馬場はカネ回りが違った」
 時は高度経済成長期。特に競馬の世界は一般社会とは別世界だったという。
 当然騎手にも憧れた山中少年だったが、体重が重かったため中学を卒業後は、ワイヤーロープを扱う大会社に就職。しかし3カ月ほど経った頃、重い道具を足の上に落として複雑骨折。安全靴を履いていなかったら足がちぎれていたのではというほどの大怪我だった。それで会社を辞め、家にいた山中少年だったが、『トシ、何してんや。競馬場来いや。別に騎手にならんでも、なんぼでも仕事あるやないか』と、再び兄に呼ばれた。
 装蹄師にでもなればということで競馬場に戻った山中少年だが、幸いにも体重が増えていなかったことで再び騎手を目指し、1967(昭和42)年4月、17歳で騎手デビュー。そして4年目の1970(昭和55)年には早くも春木のリーディングとなった。
 「地元で応援してくれる友達がいっぱい競馬場に見に来てくれて、それが励みになった。いろいろなバックアップもあったし、とにかくガッツがあった。4コーナーまわったら、ゴールに先に入ることだけを考えて乗っていた。ガッツだけや。ガッツ、ガッツ、負けん気やね」

名古屋、紀三井寺、そして金沢へ

 1972(昭和47)年に2度目のリーディングとなった山中騎手だが、春木競馬場は1974(昭和49)年3月までで廃止。所属していた騎手は全国の競馬場へ散り散りとなり、常にリーディング上位で活躍していた山中騎手は、大井の鈴木冨士雄厩舎へ移籍した。
 「当時の大井には、赤間(清松)さん、辻野(豊)さん、(高橋)三郎さんらがいて、(佐々木)竹見さんもバリバリに活躍していた時代や。小暮(嘉久)厩舎の最後の弟子になった的場(文男)も(教養センターから)帰ってきた。うまい騎手がたくさんいて、オレがここにおったって、出世は無理やと思った。当時は移籍しても4カ月か5カ月は乗れない規定があって、それでも騎手会長だった(高橋)三郎さんは、『山中、オレがなんとか早く乗れるようにしてやるから、辛抱せい』って言ってくれた。あの人はいい人や」
 しかし山中騎手は、実戦に騎乗することなく2カ月ほどで大井を去った。その後、名古屋で2年ほど騎乗した山中騎手だが、騎手をやめるつもりで、騎手免許を名古屋に置いたまま大阪に戻ってしまう。それでも騎手としての技術は確かなだけに、今度は春木から紀三井寺に移っていた調教師からの誘いがあり、紀三井寺競馬場で騎乗。ここでもリーディングになった。
 そしてさらに山中騎手に声を掛けたのが、春木時代のジョッキーで、金沢で調教師になっていた喜多壽さんだった。当時の金沢競馬場には、騎手の移籍は30歳までという規定があり、山中騎手は30歳だった1979(昭和54)年12月14日、金沢競馬場に移籍の手続きをとった。
 春木競馬場が廃止になったあと、なぜ山中騎手は短期間で競馬場をいくつも渡り歩いたのか。
 「春木ではトップジョッキーで、その年数所得に応じて補償金をごっつうもらってたから、名古屋のころはいつやめてもいい思うてた。そんなカネがあったからダメやってんけどな」
 近年では、競馬場が廃止になると言えば赤字が理由だが、春木競馬場の廃止は政治的な事情によるものだった。先にも書いたとおり、時は高度経済成長期。競馬はやればやるほど儲かった。春木競馬場は一旦廃止が決まったあと、競馬再開派と廃止派の対立による混乱で1年間の休止があり、その後1972(昭和47)年から2年間、馬主や厩舎関係者、関係業者などに支払う補償金を捻出するための、いわゆる“補償競馬”が行われた。1974(昭和49)年3月限りで春木競馬場は廃止となったが、関係者は廃止の際に当時としてはかなりの金額の補償金を手にすることになったようだ。

移籍2日目に重賞で初勝利

 山中騎手の騎乗技術は誰もが認めるところだったが、そうした経緯で金沢に移籍してきたため、評判は必ずしもいいものではなかった。
 移籍初日には2鞍に騎乗して6着、3着。主催者に呼ばれ『しっかり乗ってもらわんと困る』と注意を受けたという。
 ところが移籍2日目。その日の初戦で3着のあと、アラブの重賞・石川テレビ杯で、春木時代の親戚筋が所有しているセンジユウポープというあまり人気がない馬に騎乗。そのレースには断然人気で誰もが勝つだろうという馬が出走していたが、山中騎手のセンジユウポープは、ゴール前でその馬を差し切って見せた。移籍後の初勝利が伏兵での重賞制覇。次の開催からはたくさん騎乗依頼が来るようになった。
 「紀三井寺のときに結婚した女房は、金沢に来てから『おとうちゃん、騎手ってこんなに儲かるんか』って、びっくりしてた。金沢に来てからの三十何年間は、女房と子供がおったし、まじめにやってきたよ」
 と語る山中騎手。金沢でも1985(昭和60)年にリーディングを獲得。重賞は、先の石川テレビ杯から、2005(平成17)年の中日杯(タフネスゴールド)まで39勝を挙げている。


今やめたって悔いはない

 山中騎手は、46年に及ぶ騎手生活で、自分がかなわなかった騎手として2人の名を挙げる。名古屋の坂本敏美元騎手と、金沢の渡辺壮元騎手だ。
 「坂本さんは日本一や。それに匹敵するのが渡辺壮や。今までたくさんジョッキーを見てきたけど、2人はレベルが違う。(名古屋時代)坂本さんとはつながりのある厩舎にいて、オレが攻め馬してた馬に坂本さんが乗ったり、(坂本騎手でアラブの重賞を勝った)スーパーライトにはオレも乗ったし、自分の肌で感じてるからわかるんや。渡辺壮は、日本でも指折りのジョッキーや。あんなジョッキーは二度と出てこんよ。オレが乗って3着4着の馬にヤツが乗ると、楽に勝つんやもん。ただ持病で体が弱かったから、かわいそうやった」
 そして金沢競馬の次代を担う若手ジョッキーへの期待も大きい。
 「畑中(信司)とか、藤田(弘治)とか、吉田(晃浩)とかには、がんばれよって、いつも言ってる。金沢競馬場が永遠に続いてほしいもん。(南関東で期間限定騎乗している)吉原(寛人)の成績を毎朝新聞で見るのも楽しみや。ヒロ、昨日は勝ったかなあって(笑)」
 思い出に残る馬は?という問いには、
 「(金沢で重賞初制覇の)センジユウポープあってのことやけど、やっぱり(最年長勝利記録の)ブライアンズメテオやね。あとは(春木で)初勝利のケーブルホマレと、3頭や。若い時はいろんな重賞も勝ったけど、(ブライアンズメテオでの)2812勝目が一番忘れられない勝利やね」
 山中騎手には奥様のほかに3人のお子さんがいて、『怪我をしないうちに引退したらどうか』とも言われているそうだ。もうすぐお孫さんも生まれる。それゆえ、引退の時期についてもそろそろ考えているようだ。
 「馬券を買ってくれるファンのためにも、勝負服を脱ぐまでは、ジョッキーとして最後の最後まで一生懸命がんばらな、そういうつもりで今乗ってるんやけど、正直なところ、体力の限界っていうのがあるからな。子供らも健康に育ってるし、そうやって目いっぱいやってきたんで、今やめたって悔いはない。なんにも悔いはない」
 今年7月11日、山中騎手は63歳になる。