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がんばれ!ホッカイドウ競馬 Presents
地方競馬エッセイ&フォトコンテスト 受賞作品紹介


 ”競馬文化”をより多くの方々に発信することを目的に、ホッカイドウ競馬ひだか応援隊によるホームページ 「がんばれ!ホッカイドウ競馬」上で作品を募集していた 『地方競馬エッセイ&フォトコンテスト』の受賞作品がこのほど決定。 その受賞作品をWebハロンでもご紹介いたします。
 
フォト部門受賞作
最優秀賞 「出陣」
  内藤 綱正(北海道)
優秀賞 「眠いな」
  武田 和子(北海道)
優秀賞 「夜明けに走る」
  横山 修(神奈川県)
佳作 「きれいにしようね」
  梅田 寿子(岐阜県)
佳作 「まきば」
  武田 和子(北海道)
佳作 「遊ぼ」
  藤田 拓郎(北海道)
審査員特別賞 「ぷにぷに」
  内藤 綱正(北海道)
エッセイ部門受賞作
最優秀賞 「静かな戦い、最終レース」
  山下 広貴(北海道)
優秀賞 「走れ!シュペール」
  尾形 春夫(北海道)
佳作 「ばんえい体験」
  大野 雅史(京都府)
佳作 「ホッカイドウ競馬がくれたもの」
  内藤 綱正(北海道)
佳作 「コスモバルク、彼が戦い続ける理由」
  森 孝時(東京都)
 
   
 
   
 
最優秀賞 「出陣」 photo by 内藤 綱正(北海道)
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優秀賞 「眠いな」 photo by 武田 和子(北海道)
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優秀賞 「夜明けに走る」 photo by 横山 修(神奈川県)
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佳作 「きれいにしようね」 photo by 梅田 寿子(岐阜県)
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佳作 「まきば」 photo by 武田 和子(北海道)
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佳作 「遊ぼ」 photo by 藤田 拓郎(北海道)
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審査員特別賞 「ぷにぷに」 photo by 内藤 綱正(北海道)
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最優秀賞 「静かな戦い、最終レース」 write by 山下 広貴(北海道)
 こんなに門別競馬場に人が集まったのは初めてじゃないか。
 2009年8月13日。人で溢れる門別競馬場を歩いていると、そう思わずにはいられなかった。
門別競馬場での開催にほぼ一本化されたホッカイドウ競馬。この日のメインレースは、21回の歴史のなかで初の門別開催となったブリーダーズゴールドカップ(JpnU)だった。毎週札幌駅のバスターミナルから一台出ている無料送迎バスも、この日はいつもと違って2台用意され、どちらの車両もギュウギュウ詰め。しかも、全国区で活躍する騎手や馬目当てか、いつもの門別では見かけない顔ぶれも多かった。普段は地元重賞の日でも1台のバスに空席がちらほらという状況だけに、「いつもこれだけ人が来ればいいのに」と内心恨めしく思いつつも、私自身も交流重賞独特の雰囲気を楽しんでいた。
そのメインレースには、「改革元年」のホッカイドウ競馬に花を添えるかのごとく、例年以上に高いレベルのメンバーが集まっていた。JRA勢からは、全国の交流重賞を転戦するスマートファルコン、ジャパンカップダートを制覇したアロンダイトらが参戦。さらに、近年は出走馬の少なかった南関東勢からもトップホース・フリオーソが北海道に上陸。また、トップサバトンも、ひさびさにデビュー地・北海道のファンの前に姿を見せた。
レースは前半から猛ラップを刻んで逃げたフリオーソの後ろで控えたスマートファルコンが直線の入り口で進出、最後は鞍上・岩田康誠騎手のムチさばきに応えた。勝ちタイムの2分2秒2は以前のレコードを3秒以上も短縮したもので、まさに「交流重賞荒らし」の面目躍如という結果に終わった。

門別から札幌へ車で向かうと、高速道路を通っても最低1時間半はかかる。夜遅くならないうちに帰ろうと、この日のために遠出をしてきたと思しきファンの列が駐車場へと伸びていた。
「みんな最終レースまで見ていってほしいよね〜」
 パドックへと歩く道すがら、そのようすを私の横で恨めしげに様子で見つめていたのは、競馬仲間のTさんだった。
 門別へ足繁く通ううちに、自然と「ホッカイドウ競馬仲間」も増えた。違う世代で、しかも共通の趣味について語り合うことのできる「友人」なんてなかなか見つからなかっただけに、私は競馬場へ行くたびに新鮮な気持ちを味わっていた。Tさんもそんな競馬仲間の一人で、年に何回か、函館から車で何時間もかけて門別へ足を運んでいるのだという。私とTさんとは、前日の開催から行動を共にしていた。
 最終12レースは、「サッポロ繁盛店の生特別」というダート1,800mの特別戦。B1-1組という比較的上級の条件で、10頭立てのハンデ戦だった。
「ですよね! せっかくいいメンバーが集まったんだし……」
 私が競馬新聞を片手にそう応えると、Tさんは
「だってさ、ボカが出るんだよ?」
 と、興奮を抑えきれない面持ちであった。
 バンブーボカ。デビューは4歳の春と遅かったものの、一時はホッカイドウ競馬を代表する競走馬の一頭にまで成長していた。今は無き宇都宮競馬場で2004年に行われた交流重賞・とちぎマロニエカップでは、GT馬ノボトゥルーにクビ差迫る2着。翌年園田競馬場で行われた兵庫ゴールドトロフィーでも、ニホンピロサート・メイショウボーラーといったJRAの有力馬に次いで3着に入った実績を持つ。しかしそんな実力馬も、骨折など、襲い掛かる脚元への不安のせいで重賞タイトルから遠ざかり、もう9歳になっていた。
 ボカだけではない。3年前に地元3歳三冠の一冠目・北斗盃を勝ち、北海優駿(ダービー)でも2着に入ったフジノダイヒットや、9年前のデビューから北海道・中央で計6勝を挙げ、ブリーダーズゴールドカップでも2着に入った経歴のあるビーファイターなどの実績馬も顔を揃えていた。
このように、たしかに「いいメンバー」が集まっていた。だが、そんな「精鋭」たちも、故障などのトラブルで長期の休養を余儀なくされ、長きにわたって勝ち星から遠ざかっていた。このレースでも、条件戦を3連勝して臨むヤマノトレジャーに、一番人気の座を奪われていた。
一定期間以上の過去の賞金が減算されたり、ときにはノーカウントになったりする地方競馬において、かつての重賞ウィナーが条件戦のなかで揉まれるということは決して珍しくはないだろう。だが、出馬表の馬名の欄を眺めて、「この年まで頑張っているんだなぁ」という尊敬の念と、「この年までまだ頑張っているのか……」という、往時を偲んでの寂しさが入り混じった心境になったのは確かだった。
 開門から降り続いていた雨はすっかり上がっていた。私とTさんは、いつものようにパドックの最前列に陣取った。
Tさんは私の横で、デジタル一眼レフカメラのファインダーを懸命に覗いていた。もちろん、ファインダー越しに熱視線を送っていた先には、二人引きのボカがいたのだった。女性の中でも小柄のTさんが一眼レフを構えていると、カメラがひときわ大きく見える。ボカはいつもより少しだけ多いお客さんを目の当たりにして、少し落ち着かないように見えた。
 騎乗命令の合図がかかるのを横目に、私とTさんはコース側へと歩いた。
「そういえばさ、バンブーボカの“ボカ”ってどんな意味なんだろうね?」
「お兄さんのバンブーユベントスと関係あるんじゃないですか? ユベントスもボカも、両方サッカーチームの名前だし」
「バンブーユベントス! 名前知ってる!」
 そんな他愛もない話をしながら、馬場前のスタンドに繋がる階段を下りていった。
ウィナーズサークルでは、なおも前のレースの表彰式が続いていた。ひと仕事終えた生産牧場、あるいは育成牧場のスタッフが大挙して駆けつけたのか、収まりきらないほどたくさんの関係者が喜びの輪を作っていた。
 そのさなか、そのすぐ後ろの馬場に、最終レースの出走馬が姿を現した。表彰式という華やかな舞台の一方で、何事もなかったかのようにコースに出てくる最終レースの出走馬たち。もちろん、そのなかにはボカもいれば、フジノダイヒットも、ビーファイターもいた。ある地元の馬が、表彰式での記念撮影に沸くウィナーズサークルの後ろを横切ったとき、ウィナーを取り巻く観客から苦笑いとも失笑ともつかない笑いが起こった。
 そのとき私は、物悲しさと、そしてほんの少しの怒りにも似た思いを感じた。いったい、ウィナーを取り囲む観客のなかで、どれほどの人間が次のレースに興味を持っているのだろうか。そして、どんな馬が出ているか知っているのか。少し彼らに問いただしてみたくなった。
 華やかなウィナーをよそに、トラックやスタンドは、いつもとそれほど変わりないようにも思えた。いつもと変わらない出走メンバー。そしてゴール前には、いつも会う競馬仲間。少しずつ、いつもの風景を取り戻しつつある競馬場の雰囲気。私とTさんは、ほかの競馬仲間と一緒に、ゴール板の真ん前に立ってレースを観ることにした。
ファンファーレが鳴り、10頭の出走馬がスムーズに枠の中に収まった。ゲートが開いて真っ先に飛び出したのは、ゼッケン5番のディアダンサー(そういえばこのディアダンサーも、地元では重賞を勝っていた)だった。鞍上・伊藤千尋騎手が手綱をグイグイとしごき、52キロの軽ハンデに任せて後続を引き離そうとした。大外枠から好スタートを切ったボカは、内の先行馬に先手を譲り、前を見るような形で4番手につけた。
人気のヤマノトレジャーは、その5馬身ほど後ろの馬群でじっくりと脚を溜めていた。ボカと同じく外枠から発走したフジノダイヒットは、その隊列のすぐ後ろで若干掛かる素振りを見せながらも、インコースを確保していた。一頭離れた最後方を走るビーファイターまで、20馬身以上もある縦長の展開。向こう流しでは、この隊列がほとんど崩れなかった。
前を行くディアダンサーのリードは、もう10馬身以上になっていた。3コーナーに差し掛かった途端、ボカに跨る服部茂史騎手の手が動き始めた。その横を、外に持ち出したフジノダイヒットがマクリ気味に進出して、4コーナーのカーブへと入った。ヤマノトレジャーは、4コーナーで内の経済コースを進みながら、鞭が入れられて少しずつ前との差を詰め、コーナーの出口で一気に外に持ち出した。
そして最後の直線。力尽きたかに見えたディアダンサーのすぐ横にフジノダイヒットが並びかけて、一旦は先頭に立とうとした。だが、その外を一頭ものすごい勢いで交わしていく馬がいた。ヤマノトレジャーだった。
ボカは更に外のコースを取っていた。4頭ほどの馬を追いかけて、懸命に鞭がふるわれていた。
「ボカー! がんばれー!」
 すぐ横で、Tさんが声を張り上げていた。
そのとき私は、Tさんの熱心に応援する姿に感化されていたのだと思う。厚く馬券を買っていたわけでもなかったのに、もう無我夢中で叫んでいた。
「ボカ差せっ! がんばれ!」
 ベチャッ、ベチャッという、水気を含んだ砂を蹴り上げる音が少しずつ大きくなってきた。
しかし、後続を引き離して真っ先にゴール板を通過したのは、一番人気のヤマノトレジャーだった。フジノダイヒットは最後で勝ち馬の末脚に屈した。ビーファイターは後方から脚を伸ばそうともがいたが、9着に終わった。
 ボカは最後まで脚を伸ばした。いや、正確にいえば「脚を伸ばそうとした」という表現のほうが正しいのかもしれない。下がってきた前の馬をなんとか交わしたものの、あと一馬身のところで、3着馬を交わすことができなかった。
門別競馬場は、スタンドのすぐ横の、1コーナー沿いに検量室がある造りになっている。だからレースを終えた馬たちが引き揚げて、担当の厩務員に迎えられる姿を、スタンドから間近で見ることができる。Tさんは引き揚げてくるボカを出迎えようと、スタンドと検量室とを隔てる柵まで駆け寄った。そして、すっかり泥まみれのボカに向かって声を掛けた。
「ボカおつかれさま!」
 そのときのTさんは、心からの安堵を含んだ、満面の笑みを浮かべていた。
 ボカは最後まで戦いをやめなかった。フジノダイヒットもビーファイターも、あとから昇って来た後輩に最後まで抵抗した。強かった頃の勢いは失いつつあるかもしれないけれど、かつての輝きを取り戻し、華々しい重賞の舞台での復活を夢見ずにはいられない。
 そしてその瞬間を、私たちはみんなで待っている。
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優秀賞 「走れ!シュペール」 write by 尾形 春夫(北海道)
1 シュペール号
 最後のコーナーをまわり、ゴールを目指して怒涛のように迫ってくる馬の一群。期待の馬、3番シュペール号は現在1位!このままゆくのか?最後の直線勝負だ。どんどん加速される。腹の底に地響きが伝わってくる。「ゆけシュペール!」「頑張れシュペール!」。もうもうと舞い上がる土煙りの中、シュペール号は2位以下に大差をつけて、あっという間にゴールを駆け抜けた。
「やったー!」、ゴール直前に陣取った110名の生徒達から、どっと大歓声と拍手が湧き上がった。肩をたたきあったり、握手をしたり、あるいはガッツポーズをとる生徒達。そして、優勝馬が、北海道静内農業高等学校産であるという場内アナウンスが流れると、スタンドに詰めかけた一般観客からも、期せずして暖かい拍手が起きた。
 これは、平成21年5月20日門別競馬場で、「新生ホッカイドウ競馬」がスタートした初日の第一レース、まさに、オープニングレースでの出来事である。

 このレースに勝利したシュペール号は、平成18年5月13日本校の厩舎で牝馬として誕生。生徒達は、この馬に“愛華”という名前をつけ、愛情をこめて育て、平成19年10月のオータムセールで、日高町の幾千世牧場に買い取られたものである。当時1年生で、馬術部繁殖班に所属していた現在3年生の4名の生徒達もこの日駆けつけていた。
 シュペール号の勝利に、牧場関係者も大喜び。互いに握手、握手。平成20年7月24日、旭川での道営競馬デビュー以来8戦したが、トップを取れないでいただけに感無量のものがあったと思われる。馬主である鹿戸照美氏からも「今日の勝利は静内農業高校の生徒の皆さんの応援のおかげです」と感謝の言葉をいただく。ウイニングサークルでの記念撮影に、この馬にかかわった4人の生徒達も応援幕をもって参加させてもらった。
“高校生が育てた馬”の勝利に、マスコミ関係者もどっと押しかけてきて、育成にかかわった3年生にインタビュー、誇らしげに語る生徒達の表情が生き生きとしていた。
 この日、学校の生産馬応援も兼ねて、“競馬場視察研修”に訪れた110名の生徒達も、テレビでは感じ取れない、生の競馬の迫力を味わい、しかも、応援馬のみごとな勝利という、これ以上ない最高の場面に立ち会え、さらに、関係者からの祝福や感謝、激励をもらい最高の日となった。意気揚々と帰路のバスに乗り込む生徒達の顔が輝いていた。この企画を実施できて本当に良かった。
 ただ、この企画実現までの道のりは、そんなに簡単なものではなかった。

2 競馬場視察研修
 長引く経済不況、地方財政の悪化、娯楽産業の多様化等を背景に、競馬産業全体が縮小、衰退化の傾向の中、道営ホッカイドウ競馬も累積赤字が膨らみ、各地でのレース開催撤退が続き、平成21年度からは、馬産地「日高門別」での集約レースで起死回生をはかろうとしていた。
馬産地日高の唯一の農業高校として、また、軽種馬の学習を教育課程に位置付けている、全国唯一の高校として、地方競馬消滅の危機打開に何か貢献できないか・・。その一つの企画として馬術部顧問の先生が熱心に薦めたのが、この“競馬場視察研修”である。少しでもインパクトのあるようにと、新生ホッカイドウ競馬が門別競馬場でスタートする初日、本校生徒の視察研修を組み、「若い高校生も競馬を応援している!」とマスコミに取上げてもらい、世間にアピールすることで、道営競馬の振興に少しでも力になれないかということであった。
しかし、校長としての私は、馬産業の振興に大いに役立ちたいと思う反面、「高校生が競馬場に!?」という負のイメージの広がりを懸念し、慎重に対処するよう指示をした。学校関係者なら皆知っていることだが、どの学校でも夏休みや冬休みに入る時、休業中の生活心得をプリントにし配布して指導するが、その中には、必ず「遊技場への立入は禁止する」という項目がある。遊技場とは、パチンコ屋、マージャン店、競馬場や競輪場などを指す。青少年の健全育成の観点から未成年のギャンブル行為を禁止したものである。
ここに見え隠れするのは、“競馬”に対する一般的な見方である。競馬はギャンブルとして見られる。ギャンブルは当たれば大金が舞い込むが、はずれれば一文なし。毎日真面目にコツコツと働くのではなく、ギャンブルにのめりこみ、家庭を崩壊させ、身を滅ばしたり、あるいは掛金を得るために犯罪に走ったりという例も多く、そうしたマイナスのイメージがつきまとう。
競馬は不健全な娯楽なのか?馬の世界は安易に近寄るべき所ではないのか?

3 馬の世界との出会い
 私はこれまで、競馬とも馬とも、全く無縁の世界に生きてきた。農業高校の教員として道内各地を転勤して歩いたが、そもそも馬を日常的に見ることができる地域は日高しかない。牧草地に放牧される乳牛や肉牛は各地であたり前に眺めてきたが、平成20年4月1日、北海道静内農業高等学校勤務を命ぜられ、この地に着任して初めて、馬のいななきを朝夕聞け、道路を車で走れば、馬があたり前に見れる世界に足を踏み入れた。
 春の繁殖期、母馬にぴったり寄り添う子馬の姿に、童謡で歌われている通りの、馬の親子関係の強さを感じた。夏、牧草を食べ飽きた育成馬が、ごろんと横になり、無警戒にも腹を出してあおむけで寝る姿にはあきれてしまった。冬、寒さが増してくると、馬着を着せて寒さ対策をすることも初めて知った。
 また、業界用語にも当初随分とまどった。挨拶まわりで「JRA」とか「JBBA」とかに行くと言われても何のことなのか?また、ここでは常識の用語である「牝馬」「牡馬」「せん馬」「当歳馬」などの言葉も意味不明だったし、読み方もわからなかった。
 しかし、理屈なしに強い感銘を受けたのは、馬産地日高の景観の美しさである。海も望めるような起伏のある丘陵地帯に、イギリス様式なのかアメリカ様式なのか、私にはわからないのだが、瀟洒な美しい厩舎が立ち、その下は、牛の牧場と違って草丈が短かく、まるでゴルフ場のような牧草地が広がる。その中で悠々と馬達が草を食む。買い手あっての経営ということもあり、来客者を意識して花壇で牧場を美しく飾っている点も素晴しいと思った。私も道内あちこちとまわってきたが、馬産地日高の日本離れした景観は一級品だと思う。日常から脱出し、ゆったりとした気持ちになれる空間である。

4 馬と共に育つ生徒達
 美しい馬の魅力、馬産地日高の魅力に引き付けられるように、毎年道内各地、全国各地から、馬について学習したい。将来馬関係の仕事に就きたいという生徒達が本校に入学している。
 本校では競馬場で活躍できる軽種馬の生産を目的に、繁殖育成を行っているが、馬の繁殖育成の作業はきれい事ではない。毎日、飼い葉を与え、放牧地に出し入れし、ボロを出し、寝藁を取替え、馬体の洗浄やブラッシングなどの手入れの繰り返しである。しかし、大型動物の反応は大きく、馬への愛着、馬との交流関係が、こうした地味な作業を苦労と思わせないのではないかと思う。生徒達は毎日、実に真摯に管理作業に取り組んでいる。時には命の誕生があり、また、時には死と向き合うこともある。生まれた子馬も時がくれば競りに出し、生徒達は辛い別れを経験しなければならない。
 馬術部乗馬班の生徒達は、人馬一体となって乗馬競技の技術向上に日々努力している。その成果が実り、平成21年度は、7月末に静岡で開催された、第43回全日本高等学校馬術競技大会で全国優勝という快挙を果たした。また、馬研究班障がい者乗馬班は、地域にある養護学校との交流活動に取組み、乗馬療育を通したノーマライゼーション活動を行い、本校生徒自身も貴重な体験を重ね成長している。

5 馬産地日高に振興のために
 馬産地日高への着任、静内農業高等学校への着任は、私の馬や競馬に対する認識を大きく変えた。
提案された門別競馬場への視察研修を何とか実現させる方向で手を尽くした。まずは、法律や条例上問題はないか?競馬法や青少年育成条例等にあたった。馬券を買わせないのはもちろんである。また、学習の一環ということで、全校応援の形はやめ、カリキュラム上、馬関係科目のある生産科学科のみの参加とした。生徒輸送のバス代は教育振興会に理解を求め、日高教育局にも指導を仰いだ。職員会議で職員の共通理解をはかり、保護者にも趣旨をしっかり伝える文書を作らせ、参加承諾書を提出してもらった。この間、馬術部の生徒達を中心にシュペール号応援の横断幕が手作りされていった。
 かくして、5月20日、バス3台で生産科学科110名、引率教員5名による“ホッカイドウ競馬門別ナイトレース見学研修”が出発できた。

 今、校長室の棚には、シュペール号優勝の記念写真の額がある。ウイニングサークルの中で、誇らしげに記念写真におさまる、馬主さん、騎手、厩務員、牧場関係者。その後ろに、この馬を育てた4人の3年生がいる。4人の出身地は、3人が本州、1人は道内の紋別である。そして、4人は卒業後、1人は東京の畜産関係大学へ進学、1人は競馬場関係会社への就職、残り2人が日高と胆振の馬育成牧場へ就職することが決まっている。
 馬に夢をかけ、繁殖育成に懸命に努力する人達がいる。乗馬スポーツの魅力に心ときめかせる人達がいる。馬に癒され、馬とともに成長している人達がいる。馬産業に人生を掛けようとする人達がいる。
競馬場が、競争馬のレースの舞台としてだけでなく、様々な馬の魅力を、もっともっと幅広い人達に発信し、多くの人達を集められる、フェスティバルの舞台として使われ、馬産業全体が大きく振興することを願っている。
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佳作 「ばんえい体験」 write by 大野 雅史(京都府)
 8月22日、帯広競馬場を訪れた。8月21日から23日の3日間の、北海道旅行の1日を利用してのものだ。21日は、砂川の親戚の家に行き、23日は、札幌競馬場で札幌記念の馬券を買って帰る、というタイトスケジュールの中での1日だったので、帯広は、大きなウエイトを占めていた。北海道は母方の田舎で、高2の夏休みまでは、ほぼ毎年帰省していた。ところが、高3の夏休みの大学受験を期に、足が遠のいてしまっていた。去年のお彼岸に、祝日と仕事の休みが上手くかみ合って、砂川を訪れることができたのだが、その間17年たっていた。その17年の間に、競馬と出会っていた。大学時代、歴史を専攻していたせいか、競馬の時間的連続性に、ただのギャンブル以上のものを感じ、また、京都に住んでいることもあって、京都競馬場には、毎週通うようになっていた。そのなかで、地方競馬の存在も知るようになり、園田には時間が合えば行くようになり、ナイターという言葉につられて、大井、川崎にも行った。

 そんな中、ばんえいも見てみようと思い、帯広に行くことにした。ただ、少し心配もあった。今となっては、失礼な心配だった。それは、「つまらなかったら、どうしよう。」というものだった。下調べをしていると、ばんえいは、基本10頭立てで、距離も同じだからだ。さらに、札幌―帯広間の切符は、行きは11時30分ごろ札幌発で、帰りは20時40分ごろを予約していたので、予定の変更も、容易ではなかった。

 と、行動を起こす前に、ネガティブになってしまうのはいつものことで、そんな面倒くささも引き連れて、帯広に到着したのは、14時10分ごろだった。帯広の町を感じてみたくて、競馬場まで歩いていったので、競馬場に着いたのは、14時45分頃だった。駅からの道のりは、地図を頭に入れていたので、迷わなかったが、よっぽど近くでない限り、歩いてくる人などいないな、とも思った。京都では、競馬場には公共交通機関で、なんてCMもやっているが、やはり、北海道は車社会なんだと思った。

入口のところに、新聞売り場があったので、見慣れた競馬ブックを買って、中に入った。新聞で余談だが、帰りにお土産で、手ぬぐいを買ったのだが、その時に包装紙代わりに使っていたのが、ばんえい金太郎という新聞だった。それがまた、味のある新聞で、こっちにすればと、後悔した。スタンドの印象は、大きさなんかもふまえて、園田に近いな、と思った。2レースの前だったが、パドックは終わっているようだった。とりあえず馬券を買おうと思い、新聞を読んでいると、後ろのほうからベテラン同士の声がしてきた。「6番はナリタビッグマンの仔だべ」「ナリタビッグマンの仔にしたら今日の馬場は軽すぎるかい」どうやら、馬場の巧拙には血統的な要素があるようだ、と貴重な情報に聞き耳を立てながら、とりあえず馬券を買って、馬場の方にでてみた。掲示板に眼をやると、馬場状態の表示が、良とか不良ではなく、水分量がパーセンテージで表示されていた。4点何パーセントだったが、それがさっきの会話ではないが、軽いのやら重いのやらわからない。そんな事を考えていると、締め切りになり、出走となった。レースを見ていて驚いたことが2つあった。1つは、レース中一旦止まるという事だ。コースに2つ障害があるのだが、1個目はそれほど高くなく、あっさり通過ずるのだが、2個目は高く惰性では越せないようであった。さらに、ここをスムーズにクリアする事がレースの勝敗を左右するようで、そのために息を入れ、人馬の呼吸を合わせているようだった。新聞の馬柱の短評に膝折や腰入などと書いてあったが、それらは、2つ目の障害の失敗の様子ではないかと、思った。もうひとつの驚いたことは、レースを追いかけながら、観戦することだった。今までの知っている競馬は、目の前を全力疾走していたが、ばんえいは、早足でなら追いかけられ、一旦止まるので、そこで見ている人間が追いつくことができる。

レースが終わると、かなりの迫力とカルチャーショックを感じていた。そして出た答えが、「あかん。面白すぎる」だった。つまらなかったら、なんて考えた自分が恥ずかしかった。

次のレースは、パドックからじっくり見ることにした。ゴールの横がパドックで、そこに馬が集まってきた。サラブレッドと比べると、体重はほぼ倍あり、迫力満点だった。気合のり、体重の増減などレースに影響しそうな要素は、サラブレッドのレーと共通しているように感じた。ただ、ばんえいの馬のほうが、闘志を内に秘めているような印象を持った。他の馬と戦う前に、そりを引く自分自身と戦うためなのか。よく見てみると、お守りを着けている馬もいたり、ブリンカーも独特なことに気づいた。場内放送では、パドックの解説が流れていた。解説と気配を比べながら買い目を思案していると、ジョッキーが出てきた。そうすると、ジョッキーがおもむろに、馬にまたがった。レースでは馬にまたがらないのに、ゲートまではまたがるんだなー、と思うと、少し面白かった。返し馬ならぬ行列のような感じで、ゲートのほうに向かっていった。

その行列を見送ると、馬券を買うためにスタンドの中に一旦入った。馬券を買いスタートまでの少しの間、ようやく競馬以外のことに目がいった。スタンドの椅子に腰掛けて、景色を眺めると、ゴルフ練習場が見え、その先に高架の線路が見えた。園田、大井、川崎では飛行機が見えたけど、ここでは鉄道か、などと考えていると、締め切りとなった。一緒にレースをしようと思い、ゲートのほうにむかった。

そりは、ゲートの後ろで装着されているようだった。ゲート入りは順調で、ゲートが開きスタート。スタートと同時に、そりを引くシャキーンという音が響いた。この音は、その後のレースにも共通するものだが、心地よくも緊張感高まる音なので、とても印象に残った。1つ目の障害のスピードに置いていかれたが、2つめの障害の前で、なんとか追いついた。早足より、少し早いくらいか。人間のほうも、ここで一息。手綱を引き、力をためる。それを解き放ち、障害を越える。それぞれのタイミングで、各々越えていく。先行していた馬が、セーフティーリードかと思いきや、障害で力を使い果たしたのか失速する。それをめがけた、後続が襲いかかる。先行していた馬に合わせて移動していたので、自分が追いかけられているような気分になり、追い立てられゴール。そりの後端がゴールラインを越えるのがゴールで、最後のそりがそこを越えるまでレースが続く。

終わった馬から、そりがはずされる。ジョッキーは、そりから斤量調整のおもりなのか、銀色の手提げ金庫のようなものをおろして、控え室があるのか、左へ。馬は身軽になり、開放感を漂わせながら、厩舎があるのか、右へ。この別れ際が、なんともクールだった。ジョッキーは、馬に声を掛けたり、首筋を撫でたりすることなく、別れていった。いつもの仕事を、いつもの通り行ったということか。これが、ばんえいの流儀なのかも。そして、次のパッドクへ。

その後は、パドック、馬券を買い、スタンドで腰掛け、ゲートという三点移動に熱中する。腰掛けているときに、いろいろ気付く。日が暮れてくると、電飾に灯がともる。野外ジンギスカンがあるのにも気付いた。その日は、ねんりんぴっくの団体客で貸切だった。砂川では、ジンギスカンは味つきだが、ここではどうなのだろうか。競馬新聞の産地の欄を見ていると、どこかで集中して生産しているというよりも、家族レベルで生産しているのか、多岐にわたっていた。そんなことを考えながらも、締め切りのベルが鳴ると、すっとレースに入っていく。

5時前くらいに、相互発売の水沢レースがあり、当然のように参加し的中したが、なにか気の抜けたコーラのような気がした。それくらい、ばんえいにのめりこんでいた。

帰りの特急の時間があるので、10レースまでと決めていた。そして、その時がやってきた。最後ははずれたが、収支的にはややプラス。だが、そんなことはどうでもよかった。それくらい、凝縮された時間だったように思う。こんな競馬がここに在り、今まで経験しなかったことが恥ずかしかった。

最後のお別れと、外に出てからスタンドのほうに振り返ると、不思議な感情に襲われた。一回きりで終わるのは、寂しすぎる。ただそれは、無くなりつつあるものへの同情でもなければ、ものめずらしさでもない。レースから感じられた人と馬のプライド、そして、それが北海道という土地にある意味をもっと知りたい。ただ、もしかしたら、次行きたいと思ったときにないかもしれない。これが、不思議な感情の中身だ。しばしスタンドを眺めた後、足を駅のほうにむけた。もう一度ここに来るために。
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佳作 「ホッカイドウ競馬がくれたもの」 write by 内藤 綱正(北海道)
 2009年中央競馬札幌開催最終日。ボクは願いを込めて2歳OPすずらん賞に挑戦する道営馬6頭の入場を見送った。昨日札幌2歳Sでポップコーンが5着に破れ、道営馬の挑戦はこの2歳OPのすずらん賞ほか1レースを残すのみとなった。
 道営馬は毎年中央競馬北海道開催で勝馬を出しているが、今年はまだ未勝利だった。今年の北海道開催が1開催少ないのがなんとも恨めしい。というのも、ボクの札幌開催の、もっといえば競馬をやっている一番の楽しみは道営馬の活躍だからだ。

 ボクが初めて道営競馬を観にいったのは、まだ馬複の無かった時代のことだったが、そこはあったのは、歓声もヤジも無い中、暗い砂の上を走る名も知らぬ馬たちと、色あせた勝負服の騎手たちの姿で、ボクの知っている競馬=華やかな勝負服が芝に映える中央競馬、とは対照的光景だった。以前友人が言っていた「地方競馬に手を出すようになったら終わりだ」という言葉に納得した。

 数年後、そんなボクを、まずは地方競馬に振り向かせる馬が現れた。笠松競馬の挑戦者ライデンリーダーだ。10戦10勝のド派手な成績、なんだかすごいらしい”アンカツ”という騎手、そして桜花賞トライアルで魅せたはじかれたように伸びた末足。中央競馬のスターホースには無い個性とストーリーにボクは虜になった。それからは無条件にライデンリーダーの単勝を買い続けるようになった。
 残念ながらライデンリーダーはそれ以降勝てなかっが、ボクが地方競馬からの挑戦者達を追いかけるきっかけとなった。

 挑戦者はホッカイドウ競馬からも現れた。札幌開催の3歳(現2歳)500万下ダートの1000メートル戦に挑戦したインテリパワーという牡馬がいた。ホッカイドウ競馬で3戦3勝というちょいハデな戦績を引っさげての挑戦で、見事そのレースに勝利した。2番人気だったので大して配当は付かなかったが、ボクは目の前で勝利した挑戦者に興奮し、ウィナーズサークルへ駆け寄った。
 500万下のダート戦で、勝馬がルション産駒の地方馬ときてはさすがの中央競馬のウィナーズサークルも人影はまばらだった。そんな少ないギャラリーの中、興奮気味のボクに、これまた興奮気味のオヤンズ(誤植ではありませんオヤジではなくオヤンズです)が自慢げに話しかけてきた。「負けるわけないんだって。旭川の深い砂を〇〇秒で走ってんだも!!」。旭川の砂が深いことも、そのタイムがどれほど優秀かもボクにはわからなかったが、ボク以外にも、この地味なレースの挑戦者の勝利をこんなに喜んでいる人がいたのが嬉しかった。一人で楽しむ意外に競馬の楽しみ方を知らなかったボクには、このオヤンズとの妙な親近感は新しい競馬の魅力の発見だった。このレースは世間的にはなんてことない3歳の条件戦だったんだろうけど、ボクにとっては運命的なレースとなった。

 札幌2歳Sのヤマノブリザード、モエレエスポワール・・・その後もホッカイドウ競馬からの挑戦者の活躍は続くが、インテリパワーのレースに続くボクにとっての特別なレースは重賞ではなく、またも条件戦だった。
 1000万下支笏湖特別。挑戦したナチュラルナインは、北斗盃2着後に中央競馬500万下で優勝した実力馬にも関わらず、このレースでは13頭中10番人気だった。結果はそんな低評価を跳ね返しナチュラルナインと斉藤騎手が見事勝利した。
 「さいとーっ!」その当時、斉藤騎手のことは良く知らなかったが、引き上げてくる斉藤騎手に声援を送った(呼び捨てですが・・・)。そんなボクの声援に、斉藤騎手がちょっとだが手を上げて答えてくれたのが嬉しかった。
 ウィナーズサークルに行くと、そこは斉藤騎手サイン会会場と化していた。斉藤騎手は笑顔でサインに応じていた。ボクもレーシングプログラムにサインを貰ったが、おバカなボクはそのサインを支笏湖特別のページではなく、裏開催の小倉開催のページにもらってしまった。そんな失敗と、斉藤騎手の好印象が思い出となり、このレースがもう一つの運命的なレースとなった。

 運命的なレースのおかげで、ボクの中の道営競馬に対する悪い印象が薄れ、しだいに馬券を買いに行くようになった。最初は旭川ナイターを札幌競馬場で涼みながら観るのが夏の楽しみになり、さらにはゴールデンウイークの肌寒い中、札幌開催を観に行くようにもなった。
 馬を撮りたいとデジタルカメラを買ったのもホッカイドウ競馬にのめりこむきっかけになった。こんな写真を撮りたい、あんな写真を撮りたいと、旭川、門別に遠征するようになっていった。

 中央競馬、札幌、旭川、門別、パドック、コース、ウィナーズサークルとホッカイドウ競馬の写真を撮っていると、馬券を買うばかりだったときには気が付かなかったあることに気が付いた。ボクと同じカメラ小僧(女子)が結構居るのだ。とは言っても数人しか居ないので、その仲間とは自然と顔見知りになっていった。
 ハートオブクィーン、イナズマアマリリス、モエレエキスパート挑戦者たちが勝利するたび、カメラ小僧(女子)ボクたちホッカイドウ競馬大応援団は一緒にその勝利を喜んだ。
 このころからボクの一番の楽しみは挑戦者たちのレースを観ることと、応援団のみんなとその勝利を喜ぶことになっていた。

 すずらん賞の挑戦者たちが次々とゲートに収まっていく。
 ゲートが開き、応援団の期待を背負って挑戦者たちが走りだす。
 4コーナーを曲がるとき挑戦者の1頭ビービーエーディンが絶好位に付けていた。
 「勝てる!」
 「まさーっ頼むぞーっ!!」直線粘りこみを図るエーディンと斉藤騎手に向かって叫ぶ。
 ボクの目の前をあっという間に過ぎたエーディンと中央馬がボクの左手100メートル先のゴールに並んで飛び込んだ。
 ボクの位置からではその勝敗ははっきりとは判らなかった。
 「なんだ?道営馬か?」馬券がはずれたのかテンションが下がる周囲の雰囲気とは反比例にボクは一人興奮していた。
 興奮で立ち尽くしたままターフビジョンに映し出されるゴール前のリプレイ映像をまった。
 映像が映し出された。
 エーディンは中央馬を首差しのぎ勝利していた。
 「よっしゃー!」
 周囲に自慢するようにスタンドを駆け下り、ウィナーズサークルへ駆けつけた。
 笑顔、笑顔、笑顔。応援団の仲間がもうすでに陣取っていた。
  握手をし、ハイタッチをし喜びを分かち合った。
 「今年はだめだと思った」
 「最後の最後で勝ってくれて良かった」
 今までの不安も、挑戦者の勝利を喜ぶ気持ちもみんな一緒だった。
 今のレースの話し、負けていった馬たちの話、馬券の話し、エーディンと斉藤騎手を待つ間話したいことはいっぱいあった。
 エーディンと斉藤騎手がウィナーズサークルに現れ、声援が送られる。

 こうやって挑戦者の勝利の喜びをみんなで話していると、ホッカイドウ競馬のファンになって本当に良かったと思う。ホッカイドウ競馬に出会い、競馬のなによりの楽しみは、1頭の1つの勝利をみんなで喜び合えることだと気づいた。そしてホッカイドウ競馬はその機会とそれを分かち合える仲間に合わせてくれた。もしホッカイドウ競馬に出会わなかったら競馬の本当の魅力に気づくことはなかったであろう・・・

 表彰式の終わったウィナーズサークルではあの時と同じ笑顔で斉藤騎手がサイン続けていた・・・
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佳作 「コスモバルク、彼が戦い続ける理由」 write by 森 孝時(東京都)
2004年4月、牡馬クラシック戦線の開幕に盛り上がる中山競馬場のパドック。“地方に夢を!翔けバルク!行け冬樹!”と書かれた横断幕のすぐ目の前を、熱狂的なファンの声援を全身に受け、まるで地方競馬所属の全ての馬たちの夢と、同じく地方競馬に関わる全ての人たちの期待、そして全ての地方競馬場の将来までもを一身に背負うようにして、コスモバルクと五十嵐冬樹は歩いていた。
2.4倍の1番人気、それはラジオたんぱ杯や弥生賞で見せた彼の高い能力が評価されたことが、一番の理由だったろう。しかしそれだけではなく、多くのファンが抱いていた“様々な想い”が後押ししたということも、紛れもない事実だったはずである・・・。


あれから5年半ちょっとの時間が流れた2009年12月、コスモバルクは中山競馬場のパドックを、あの頃よりも少しばかりゆったりとした雰囲気で周回していた。
「バルク〜っ、頑張れよ〜」
あの頃と変わらない声援が、時折彼の耳に届いた。でも一方で、彼の気持ちに水を指すような言葉が、それほど小さくはない声で投げかけられていた。

「なんだよ、バルクはまた来てんのか。もうピークはとっくに過ぎてるだろうに・・・」
「バルクが出走するせいで、応援している馬が除外になっちゃったじゃないか・・・」
「どうせ北海道からの馬運車の料金も稼げないだろうに、なんで出走するんだよ・・・」
「種牡馬になれない馬は走り続けるしかないもんな・・・」

口さがないそんな言葉を、コスモバルクはまとめて飲み込みながら、パドックを歩いていた。
コスモバルクはなぜ走り続けるのか?残念ながら、どんなに優れた馬でも、人間の言葉を話すことが出来ない以上、自らが競馬を続けることを望んで走っていると、証明することはできない。
もちろんそれは、コスモバルクが競走生活から引退したいと望んでいるという意味ではない。単純にコスモバルクが人間の言葉で“走り続けたい”と、発言することはできないのだから、彼がどう望んでいるのか、僕ら人間にはわからないという意味だ。いくらレースで彼が走る気力を見せたとしても、年齢を上回るパフォーマンスを見せたとしても、力強い意思をレースで表現して見せたとしても、人間側からみれば、状況を独自の判断のもと、汲み取っているということに過ぎないのだ。
それに何より、競馬というスポーツは他のスポーツと異なり、“馬主”という大きい存在がある。仮に本人が・・・、彼自らが“現役生活を続けたい”と発言できたとしても、自らの存在だけでそれを実現することはできない。馬主なしでは競走生活はおろか、馬が生活していくことはできないのだ。そういう意味では、競走馬は馬主の判断で現役続行か引退かが決まるのだ。
それだけに、コスモバルクが走り続けたいと願っていたとしても、そうでなかったとしても、少なくとも今、この瞬間は“現役続行”という状況を選択しているということ以外に事実と言えるものはないのかもしれない。
でももし彼が、自ら現役という道を選んでいるのだとしたら・・・。そしてそれを、自らの言葉で伝えられるとしたら・・・、彼は“何故ならば・・・”の言葉の後に、どう話してくれるのだろうか?
パドックをゆったりと進むコスモバルク。ちょうど、あの“地方に夢を!翔けバルク!行け冬樹!”と書かれた横断幕の前で、係員からの騎乗合図が掛けられた。各馬の背にジョッキーが就く。コスモバルクの背には五十嵐冬樹が跨ると、決戦の場となる本馬場に向けて、他馬よりも先に地下馬道へ入っていった。


「なぁ、お前は何で走りつづけるんだよ?」
背中越しの鞍上の問いかけに、彼は少しだけ間をあけてから答えた。
「正直なところ、別にもうオレが地方競馬の意地とプライドを一身に背負って走ってるってワケじゃないと思ってる。もっとも5年前半、あのクラシックの時は、そうは思ってなかったけどな…。あの時はオレが中央で勝たなければならないと思ってた。オレでなければならないと思ってた。でもな、今はそうじゃないと思うんだよ・・・」
いつもの彼なら、この地下馬道を小走り気味に通り抜けていたはずだ。でも今日はまるで、この鞍上と話そうとして、逸る気持ちを抑えつつ、あえて時間を掛けて歩いていた。
「地方は中央と比べてレベルが低いなんてことはない。これまでに数多くの馬や関係者たちがそれを証明しようとしてきた。でもそのやり方はいつだって、ある1頭の馬が大レースを勝つというようなものだった。ライデンリーダーやオグリキャップ、そして昔のオレもそのうちの一頭だったかもしれない。でももう時代は変わったんだ。誰もが簡単にわかるくらい、地方の馬たちもレベルアップした。それは調教レベルとか云々の話じゃない。血統的にスゴイ連中が、2歳のうちから直接地方に入ってくるようになったんだ。俺のように、失格の烙印を押された種牡馬の仔ではなく、いわゆる良血馬と呼ばれる連中が、地方競馬でデビューするケースも増えてきたんだ。だからこそ、地方に強い馬が1頭や2頭いるなんてことは当たり前のことになったんだよ」
淡々と話す彼の話を聞きながら、鞍上は騎乗の時に引っかかって乱れてしまったタテガミを、左手で整えた。
「それなら尚更、理由がないじゃないか。それでも走り続けてる理由はなんなんだい?」
「カンタンさ。1頭の強い馬が地方競馬に突然現れて、中央の馬たちに戦いを挑み、地方競馬が中央競馬と差が無いということを証明していくっていう時代が終わったからだよ」
彼は事も無げに答えた。
「もうその段階は終わったんだよ。今は、もう一歩先に進んだんだ。一頭ではなく、数多くの地方競馬の実力馬が、全国各地で自らの力を示さなきゃいけなくなったんだ。例えば船橋のフリオーソや、大井のフジノウェーブ、川崎のユキチャンにブルーラッド、笠松のラブミーチャン・・・。もっともっと多くの地方競馬の馬たちが、あっちこっちで活躍していかなきゃならないんだよ。だって騎手だってそうだろ?地方競馬の騎手にも中央の騎手に負けず劣らず腕利きがいるってことは、もうみんなに理解されてる。安藤勝己に岩田康成、内田博幸、小牧太。地方競馬で腕利きと言われてた騎手が、中央に移籍しても活躍を続けているんだから。地方所属のまま中央のレース参戦してる戸崎啓太や吉田稔、吉原寛人に的場文男だって、地方のレースだけでなく、中央のレースで結果を残して、今では中央のレースで騎乗する時でさえ、騎手の力で騎乗馬が人気になるようになってきた。そう、今、オレの上にいるアンタだってその一人だ」
その言葉に、鞍上が苦笑いを漏らした。
「でもな、例えば中央競馬の北海道シリーズでアンタだけが活躍したとしても、地方競馬の騎手のレベルが高いとは言われないだろう。山口竜一や、服部茂史、桑村真明、みんなが各レースで勝ちまくって初めて、地方でも腕利きが揃ってると言われる。これが地方競馬の騎手の実力は中央と変わらないという証明につながるハズだ。違うかい?」
鞍上は黙って頷いた。
「馬にとっても同じ話さ。オレも含めて、数多くの地方競馬所属馬が活躍しなけりゃならないわけだ。だからOne of them、つまり数多くの地方競馬所属馬の一頭として、俺は今は走ってる。走り続けてる。確かにオレもロートルになったかもしれない。これまでの実績で、今のポジションにいるだけなのかもしれない。でもだからこそ、このポジションからオレ引き摺り下ろしてくれる馬が現れるまでは・・・、それも1頭や2頭ではなく、もっともっと多くの馬が現れるまでは、走りつづけなきゃならないんだ。願わくは、それがオレを生んだ北の大地の競馬場であって欲しいもんだけどな・・・」

地下馬道が終わろうとしていた。彼の視線の先に、明るい陽の光が見えてきた。人馬はその場に立ち止まった。
「有馬記念も6回目か。今までにこんなに走った地方馬はいないだろうな・・・。来年もこの場にいることが、オレにとっての幸せなのか、そうでないのか・・・。来年もこの場にいることが、地方競馬にとってプラスなのか、そうでないのか…。それはわからないが、今、この瞬間、オレは輝き続けなければならない。もっと輝ける馬が地方競馬から何頭もでてくるまでは・・・。まぁ、それはアンタのような騎手にとっても同じことなんだろうけどな・・・。いつかオレが走るのを辞める時が来ても、アンタは戦い続けなくちゃならない。オレと同じ地方競馬の馬を目一杯活躍させて、地方競馬のレベルをアピールしていかなきゃならない。アンタだけでなく、アンタの仲間の騎手たちと一緒にな・・・」
鞍上は頷くと、差し込む光に向かって引き気味にしていた手綱をゆるめた。
「さぁ、中央の馬と騎手たちに、一発、泡を吹かせに行こうか・・・」
人馬どちらともなく、そう言った。


2009年12月27日、中山競馬場。グランプリレース、第54回有馬記念。コスモバルクは自身48回目のレースへ臨む。五十嵐冬樹を背に、冬風になびく芝を瞳に映したコスモバルクは、6回目の有馬記念でも、きっとあの頃と変わらぬ闘志を見せてくれることだろう。
でももし彼が、自ら現役という道を選んでいるのだとしたら・・・。そしてそれを、自らの言葉で伝えられるとしたら・・・、彼は“何故ならば・・・”の言葉の後に、どう話してくれるのだろうか?
それはわからないが、きっと地方競馬の期待と、ファンの想いを背負い続けてきた彼らしい答えを聞かせてくれるだろう。そして、彼はまだ、その期待と想いを背負い続けてくれるだろう。いつまでも・・・。
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