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高岡秀行調教師 シンガポール7年の足跡


取材・文●斎藤修
写真●斎藤修、Singapore Turf Club

 
 シンガポールでの活躍が認められ、NARグランプリ2008の特別賞を受賞した元ホッカイドウ競馬の高岡秀行調教師の2009年は、さらに飛躍の年となった。ジョリーズシンジュでのシンガポールダービー制覇を含めた4歳三冠制覇に加え、エルドラドではシンガポールゴールドカップを連覇。いずれも北海道のトレーニングセール出身馬でのタイトルだけに、その喜びや影響は、高岡調教師や関係者だけでなく、日本の生産界にとっても大きなものとなった。
 高岡調教師がシンガポールに渡ってからの7年を振り返ってみたい。



■ 北海道からシンガポールへ

 ホッカイドウ競馬時代の高岡調教師は、騎手として524勝を挙げ、調教師としては93〜02年に地方競馬で355勝、中央で1勝を挙げた。その中には、タキノスペシャルでの北海道3歳優駿GIII(99年)、ナミでエーデルワイス賞GIII(00年)のタイトルもある。00年には北海道リーディングを獲得し、NARグランプリの優秀調教師賞の表彰も受けた(02年までは主催者ごとにひとりずつ優秀調教師・騎手が選定されていた)。
 シンガポールの競馬を初めて観戦したのは02年1月。重賞などが行われていた日ではないにもかかわらず、第1レースからパドックを多くのファンが取り囲み、レースでは大きな声援。「こういう活気のあるところで競馬をやってみたい」というのがシンガポールの第一印象だった。
 一方、00年に第1回シンガポール航空国際カップが行われ、競馬一流国の仲間入りを果たしたいシンガポールでは、競馬のさらなるレベルアップのため、世界から優秀な人材を求めていた。当然そうしたなかには日本も視野にあり、そこに手を挙げたのが高岡調教師だった。
 高岡調教師は02年7月に再びシンガポールを訪問。一度の面接のみで、シンガポールでの開業が決まった。ただしそれには条件があった。馬を15頭以上連れていくというもの。
 付き合いのある馬主や牧場関係者に声をかけ、集めた現役のサラブレッドは18頭。その年のホッカイドウ競馬のシーズン終了後、12月にシンガポールに渡り、翌03年の元旦付けで厩舎開業となった。

■ 苦労した3年間

 「最初の3年くらいは、ほんとにどうしようかなと思ったくらい、成績も、頭数も、いろんな面で、これはまずいかなという感じでした」と振り返る。
 1年目の03年は6勝、04年は11勝、05年は17勝。徐々に勝ち星が増えたとはいえ、とても満足できる成績ではなかった。何より資金的なことがギリギリのところまできていた。
 シンガポールでは調教師も馬を所有することができる。というより、日本のように調教師が馬を所有できないルールは、世界的にもまれだ。
 セリなどで手ごろな価格で走りそうな馬を探し、それを所有してくれるオーナーを探す。1頭まるまる所有してくれるオーナーがいればいいが、オーナーと共有となることもめずらしくない。日本のようなシステムであれば、調教師はいわゆる進上金しか受け取れない。しかし馬を所有していれば、当然のことながらその持分に応じて賞金も入ってくる。自分で探した馬で賞金も、となればそれなりにやりがいも出てくる。とはいえ、馬が走らなければその分、負担も大きい。
 とりあえず最低限の頭数を集めて移籍はできたものの、その後はなかなか思うように馬が集まらなかった。しかし厩舎を回していくためには頭数を減らすわけにはいかない。必然的に自身の持ち分も増えてくる。
 問題は資金面だけではない。最初にも書いたとおり、シンガポールは世界トップレベルの仲間入りを果たすべく、優秀な人材を常に求めている。逆を言えば、優秀でない人材は不要ということになる。それゆえシンガポールでは、出走数や勝利数など数字として表れる面だけではなく、厩舎運営のさまざまな面が評価の対象となる。仮に、自身の資金に余裕があったり、大馬主のバックアップがあるなどしても、成績が並以下なら厩舎を続けていくことは難しいのだ。
 シンガポールへの移籍は、もちろんある程度やれるという自信を持ってのもの。02年1月にシンガポールの競馬を見たときに、地方競馬の中級クラスの馬でも十分にやれるだろうと見ていた。しかし見るのと実際にやるのでは違った。
 シンガポールではレーティングによってクラス分けが行われているが、日本から連れていた馬が、思いのほか、かなり高いクラスに格付けされてしまったからだ。これは日本の高い賞金ゆえでもある。地方競馬の賞金はそれほどでもないと思われるかもしれないが、JRA認定レースや南関東の賞金は、世界的に見ても下級条件の賞金としてはかなり高い。そうしたことが理由で、日本で出走経験のあった馬がシンガポールでも賞金を稼げるようになるには、何度か負けてレーティングが下がり、下のほうのクラスで走れるようになるのを待つしかなかった。

■ 流れを変えたダイヤモンドダスト

 競馬では、ある1頭の馬との出会いや、大レースでの勝利が、それにかかわる人のその後を大きく変えることがある。高岡調教師のそうしたきっかけは、シンガポールで開業して4年目、06年2月24日にやってきた。
 日本産ながらシンガポールでデビューさせたダイヤモンドダストがGIIIのコミッティープライズを制し、厩舎に初の重賞タイトルをもたらしたのだ。
 
06年シンガポール航空国際カップに出走したダイヤモンドダスト
 ダイヤモンドダストはその年、あのコスモバルクが制したシンガポール航空国際カップにも出走。4コーナーではコスモバルクの直後に迫るあわやという場面もあり、最低人気ながら5着に好走した。
 高岡調教師はこの年、勝ち星を一気に42まで伸ばした。これには、シーズン中に亡くなられた調教師の管理馬を一時的に預かっていたという理由もあったのだが、そうしたことでも確実に追い風が吹いていた。
 ジョッキーの起用でも変化があった。移籍当初は、騎乗してくれるジョッキーを探すことだけでも一苦労だった。リーディング上位の騎手は、当然のことながらリーディング上位の厩舎に確保されている。ところが重賞をひとつ勝ち、勝利数も伸びたことで、トップジョッキーから「あの馬に乗せてくれないか」などという、いわば営業も増えてきていた。
 苦労していたそれまでの3年とは一変、流れが変わるということは、まさにこういうことなのだろう。

■ エルドラドが伝統のGI連覇

 
エルドラドがシンガポールゴールドカップを連覇
 08年11月には日本産のエルドラドでシンガポールゴールドカップを制した。シンガポールでは5月に国際GIのシンガポール航空国際カップが行われているが、シンガポールゴールドカップは、国内限定では最高峰に位置づけられる伝統の一戦。シンガポールでのGI初制覇は、国内最大のレースで成し遂げることとなった。
 エルドラドは06年のひだかトレーニングセールで、シンガポール在住のオーナー大谷正嗣氏が競り落とし、同年秋にシンガポールに渡った。デビューは直後の11月。シンガポールでは南半球産馬が多数を占めるため、この時期の北半球の2歳馬は、生まれが半年早い南半球の3歳馬とレースをしなければならない。そうしたこともあり、初勝利を挙げたのは3歳10月の9戦目。最下級条件(クラス5)の芝2200メートル戦だった。
 シンガポールの競馬は香港などと同様にオーストラリアの影響が強い。それゆえ短距離路線の層がきわめて厚く、番組も短距離戦が充実している。エルドラドはそうした隙を突く形で、2000メートル以上のレースで力を発揮。その後2000メートルのレースで3勝を積み重ね、さらに2000メートルのシンガポールダービーでは、勝ち馬から3馬身差はつけられたもの2着に入る健闘を見せた。
 そして迎えたシンガポールゴールドカップは、50キロと斤量に恵まれたことと、何より得意の2200メートルという距離で、人気のシェヴロンをアタマ差でしりぞけ勝利。長距離では無類の強さを発揮した。
 その後は常にハンデを背負うようになったこともあり勝ち星から遠ざかったが、再び50キロで出走した09年11月のシンガポールゴールドカップを勝利。1年ぶりの勝利が、大一番の連覇となった。
 
シンガポールゴールドカップ優勝馬主の勝負服が
ペイントされている表彰台脇のジョッキー像
 「1800メートルでは、こんなに走らないはずがないというレースぶり。2000メートルでも微妙にイマイチ。距離が200メートルずつ延びるだけで、あれだけガラっと変わる馬もめずらしい。それとやはりハンデに恵まれたこともありますね」と高岡調教師。
 シンガポール国内のレースだけに、レーティングがそれほど高くないため選ばれるかは微妙だが、エルドラドは3月27日に行われるドバイシーマクラシック(芝2400メートル)に登録している。

■ 三冠制覇、ジョリーズシンジュ

 09年はジョリーズシンジュが4歳三冠制覇を達成し、シンガポールではもっとも注目を集めた馬の1頭となった。
 
ジョリーズシンジュがシンガポールダービーを制して
4歳三冠制覇
 明けて2月に発表されるシンガポールの2009年の年度表彰では、クリスフライヤー国際スプリントで香港のセイクリッドキングダムのクビ差2着だったロケットマンとの年度代表馬争いが話題となっている。
 07年のひだかトレーニングセールでシンガポール人オーナーに買われたジョリーズシンジュは、08年元旦のデビューから1200メートル戦のみを使われ、順調にクラスを上げていった。当初はそのオーナーが専属としていた調教師に預けられていたが、別の馬で話の行き違いなどがあり、ジョリーズシンジュは08年10月に高岡厩舎に転厩してきた。
 重賞初挑戦は09年3月、1200メートルのマーライオントロフィー(GIII)3着。1戦はさんで同じ1200メートルのクランジスプリント(GIII)でロケットマンの3着。そして続く1200メートルのGI・ライオンシティカップではロケットマンの10着と、デビュー以来初の惨敗を喫してしまう。
 
シンガポールダービー表彰式
 短距離路線では圧倒的な強さで勝ち続けていたロケットマンがいるため勝つのが難しいと判断した高岡調教師は、距離を伸ばして4歳三冠への路線変更を進言。オーナーもこれに同意した。
 初めて1400メートルに距離を延ばした4歳一冠目、5月31日のパトロンズボウル(GI)を2着に1馬身半差をつけて勝利。6月21日の二冠目シンガポールダービートライアル(GII・1600メートル)、7月12日の三冠目シンガポールダービー(GI・2000メートル)は、ともにハナを奪い、他馬に競りかけられる厳しい展開ながら、直線では後続を突き放して圧勝。2着馬との着差はともに5馬身。距離が延びれば延びるほど強いレースぶりを披露しての三冠制覇となった。
 09年後半のジョリーズシンジュは、シンガポールでは斤量を背負ってしまうこと、またこれといって目指すレースもないことなどから、オーストラリアに遠征し、実力ナンバーワン決定戦のコックスプレートへの挑戦となった。
 8月下旬にオーストラリアに渡り、初戦となった9月12日のGII・ダトタンチンナムステークス(ムーニーヴァレー1600m)は、勝った1番人気馬から1+2 3/4馬身差の3着と好走。コックスプレートに向けてまずまずのスタートだった。
 続く2戦目は9月25日。本番を見据えて出走した同じ舞台(ムーニーヴァレー2040メートル)の準重賞JRAカップは、1番人気に支持されながらもブービーの12着に惨敗してしまった。
 「1戦目のちょうど1週間後だったか、検疫厩舎の近くでカーニバルがあって、花火を打ち上げたらしいんです。それですごくイレ込んでしまい、翌日熱発してしまったんです。その影響もあったと思います」(高岡調教師)
 不可解な惨敗に、主催者から心電図の検査を課され、それはクリアしたものの、10月24日に行われるコックスプレートに出走するためには、どこかもう1戦か2戦して、結果を残す必要があった。あくまでもコックスプレートを目指したいオーナーと、これ以上日程を詰めて使うのは無理と考えた高岡調教師とで意見が分かれ、サポートで帯同していたシンガポールの別の調教師のところへの転厩が決定された。その後に結果を残すことができなかったジョリーズシンジュは、結局コックスプレートへの出走はならなかったのだが。
 「(コックスプレートやメルボルンカップが行われる)ヴィクトリア州のスプリングカーニバルを使う人たちは、その間に短期間で連闘連闘で使います。それがむこうの普通のやり方になっているみたいなので、どうしてもその流れに引き込まれたというのはありました。ただ、そういう経験がなかったですから、馬に負担がかかったんだと思います。残念な結果になってしまいましたが、1戦目を見たときには、もしかしたら本番でも結果を残せるかもしれないという手ごたえはあったんですよ」(高岡調教師)

■ 日本産馬での活躍、今後の目標は

 07年27勝、08年38勝、09年35勝で、09年までの通算勝利数は176。重賞タイトルは、ダイヤモンドダスト、エルドラド、ジョリーズシンジュで計6勝。管理馬は日本産馬ばかりというわけではなく、オーストラリアやニュージーランド産の馬も少なくないが、ここまでの重賞勝ちはすべて日本産馬でのもの。
 「距離適性を考えると、スプリントのレースではオーストラリアから来る馬にはほとんどかないません。ただ、マイル以上の距離なら、オーストラリアの馬と同価格帯の日本産馬でも互角に渡り合える。長距離のレースが重要視されてきたという日本の血統背景もあるでしょう。それが結果に出るのかなと感じています。もちろん日本の血統をよく知っているからというのもあります。馬の形や体格にしても、日本産馬とオーストラリアの馬では、明らかに違う。そういうことがわかったことも面白いですね」(高岡調教師)
 
シンガポールゴールドカップ表彰式
 シンガポールで8年目に突入した高岡調教師に、今後、目指すところを訪ねてみた。
 「北海道のときから、とにかくダービーのタイトルは勝ちたいと思っていました。そのダービーも去年ジョリーズシンジュで勝っちゃったし……。エルドラドでのシンガポールゴールドカップ3連覇になりますかね。それと、海外にもまたチャンスがあれば使いに行きたいですね。(移籍当初からのひとつの目標であった)JRAへの挑戦は、ちょっと壁が高すぎるかなと思うようになってきました。でも一度は挑戦してみたいという気はします」


 
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