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みちのく大賞典直前企画 岩手競馬最強馬列伝 トウケイニセイ編

2010年06月16日
文●松尾康司(テシオ編集部) 写真●いちかんぽ

第21回(1993年8月1日)みちのく大賞典 優勝
【トウケイニセイ】

 2010年6月20日(日)は岩手伝統の「第38回みちのく大賞典」がある。今年は昨年と同じく水沢2000mが舞台。OROパークがスタートした年、ヘイセイシルバーが優勝した平成8年を含めると、水沢で行われるのは通算3回目となる。

 みちのく大賞典優勝は岩手のホースマンにとって最高の栄誉。いかにダートグレード競走が導入されても、実施形態が変わろうとも価値は不変。途中からしか見ていない小生でもみちのく大賞典は別格。思いは半端じゃなく強い。
 中でも旧盛岡競馬場(緑ヶ丘)で行われた第21回(平成5年)は、どのレースにも増して思い入れが強いレース。トウケイニセイが初めて表舞台に立ち、しかも驚異のレコードを樹立して優勝した瞬間は、まるで昨日のことのように覚えている。
 何度となくトウケイニセイについて書いているが、今回は個人的なエピソードを交えて当時を振り返ってみたい。

 トウケイニセイはダービーの類にはまったく縁がなかった。すでに伝説化されているが、デビュー戦を快勝後、不知の病と言われる浅屈腱炎を患い、競走馬に最も大事な時期を盛岡近郊の牧場で過ごしていた。
 1年7ヶ月の長期休養を経て、ようやく復帰を果たしたのは今で言えば4歳春。いつ故障してもおかしくない状況下で、連戦連勝。日本新記録のデビューから無敗18連勝を打ち立てたが、その間、追い切りは一度もなし。
 当時、小生は盛岡の調教をずっと見ていたので自信を持って言える。どんなに強い調教でも15−15(調教タイムに計時できず)以上のメニューを課さなかった。
 しかし、これには訳がある。旧盛岡競馬場は実際のレースでも使っていたが、メインの役割は調教場。
 現在、みちのく大賞典に“一條記念”と冠がついた一條親子の子息・一條友吉氏が設計に深く関わったからだ。

旧盛岡競馬場
向正面が左側(3C)方向に上がっている
 父・牧夫氏の命を受け、若いときにアメリカで研修。ホースマンとしてのノウハウを身につけ、大戦後の岩手競馬復興に大きく寄与もしたのだが、旧盛岡競馬場はアメリカンスタイルを採り、1周1600m左回りのコース。
 それだけではなかった。坂路は重要な鍛錬になると、友吉氏は当時から分かっていた。今では強い馬作りに坂路は必要不可欠だが、アメリカ、そしてイギリスなど競馬先進国に実際に行って学んだのだと思う。
 緑ヶ丘(旧盛岡競馬場)はその名が示すとおり、元々が丘。しかし、一條氏はあえて平坦に造成せず、自然形態を生かして盛岡競馬場を作った。2コーナーから徐々に上り坂があり、3コーナーを頂点にあとは下り坂。ちょうど向正面が、今で言う坂路となっていた。
 故・山口瞳氏が初めて盛岡競馬場を見たとき、「まるでアスレチックコース」と表現したが、それは確信を持ってのことだった。
 そしてトウケイニセイは“アスレチックコース”の特性を生かして体を作り、レースで必要な持続力とパワーを養った。


 余談だが、新盛岡競馬場=OROパークに直線で上り坂があるのは、旧盛岡競馬場の思想を受け継いだから。さらに深く言及すれば洋式競馬が導入されて日本で3番目の競馬場が菜園の盛岡競馬場だった。そして明治36年、上田に移転し、閑院宮載仁親王が黄金(こがね)競馬場と命名。その後、3代目・緑ヶ丘、そして現在の盛岡競馬場(OROとはラテン語で“黄金”の意味)と移ってもなお、先代からの『黄金』の名と思想を受け継いで現在に至っている。

 今は亡き櫻田新一郎調教師、小西善一郎調教師、大和正四郎調教師によく言われたものだった。馬作りに速い追い切りは必要ない。息を持たせる調教をやりさえすれば大丈夫なんだ、と。
 これがトウケイニセイに幸いした。脚元に爆弾を抱え、常に状態と相談しての出走だったが、レースを使うたびにパワーアップ。しかも強い負荷をかけず、ジッと我慢をさせているうちに心身ともに逞しさを増していった。

ハルサンヒコー
(写真は93年 みちのく大賞典出走時)
 そんなトウケイニセイの連勝に終止符が打たされるときがきた。1992年11月、ハルサンヒコー(現役で活躍中はハルサンヒコ)が立ちはだかり、連勝をついにストップ。トウケイニセイは初めて前に馬を見ながらゴール板を通過した。
 しかし陣営はさほどショックを受けていなかった。むしろ、勝たなければならないプレッシャーから解放されたことの方にホッとした。
 ただ、調教メニューはその一戦を境にガラリ一変した。初の黒星から1ヶ月後、次のレースに臨むにあたり、3本もの追い切りを消化した。しかもムチを入れて。
 トウケイニセイは通算43戦39勝2着3回3着1回と驚異的な数字を残して引退したが、もう一つ驚くことは連敗が一度もなかったこと。それだけではなく、敗戦を喫した次のレースの強いこと強いこと。負けた悔しさがそうさせるか分からないが、相手を完膚なまでに叩きのめすのがトウケイニセイだった。
 彼に学んだことは一杯ある。追い切りをやらなくても息が持てば勝てるということは先に記したが、この敗戦から教わったのは「より高いステージを求めるための調教方法」。トウケイニセイをずっと目の前で見続けることができたのが、小生の大きな財産となった。

 敗戦直後の圧勝でシーズンを終了。翌年も重賞・特別には見向きもせず、平場戦をずっと使って連戦連勝。なぜ表舞台に立たなかったのかと思うファンも多かったが、実は“やばい時”があった。
 春2連勝を飾ったあと、脚部不安がついに発生。調教も休まなければならなくなった。93年5月23日から7月18日までレース間隔が開いたのが、その時期だった。
 しかし早期発見、早期治療が功を奏し、無事に戦列復帰。当然のように快勝したトウケイニセイは、ついに表舞台に登場。しかも岩手で最も格式の高かった「みちのく大賞典」へ名乗りを上げた。
 当時、岩手オープン界はスイフトセイダイ、グレートホープのSG時代だったが、先に行われたシアンモア記念でモリユウプリンスが引導を渡し、世代交代の旗頭となったばかり。
 モリユウプリンス時代が到来したと誰もが疑わず、当然の1番人気。一方、トウケイニセイは生涯初めて2番人気に甘んじての出走となった。
1993年8月1日付ケイシュウニュース
(トウケイニセイの記事は右下)
画像提供:ケイシュウニュース

 実はこのみちのく大賞典で暴挙をやってしまった。ケイシュウニュースの紙面半分を使って、トウケイニセイの生い立ちから現在までのロングストーリーを掲載した。それを当時の上司・通称“ヤッさん”(阿部靖男さん)へ願い出たところ、作りたいように作れと許可してくれた。
 確かに周囲からの反発、批判は想像以上に大きかった。今ならできたかどうか分からないが、若気の至りだったかもしれない。仮にトウケイニセイが負けていたらケイシュウの信用問題にもなっていただろう。

 後にTM時代と言われる口火を切った「第21回みちのく大賞典」。この雌雄対決には紙面作成の責任も重なり、本当に固唾を呑んで見た。今でも忘れられない。心臓はドキドキを通り越し、バクバクしていた。






モリユウプリンス(左)を完封したトウケイニセイ(中央)
 旧盛岡競馬場の2000m発走地点は今と同じく4コーナーポケット奥。2番手をキープしたトウケイニセイは直線で先頭。その外からモリユウプリンスが襲い掛かったが、トウケイニセイは待ってましたとばかり再加速。モリユウプリンスを2馬身半突き放してゴールへ入り、電光掲示板は2分3秒9がずっと点滅。
 トウケイニセイはスイフトセイダイの持つ盛岡2000mレコードを0秒8も更新。初重賞挑戦を驚異のレコードで制し、一気に頂点へと上り詰めた。

 その後の活躍は周知のとおり。岩手競馬史上で最強馬の名を残し、引退式には多くのファンが集まった。
 トウケイニセイは生涯4度の敗戦を喫している。初黒星は日本記録18連勝を打ち立てた直後、ハルサンヒコーに。4度目は南部杯でライブリマウントの3着(2着はヨシノキング)。そして2、3度目は奇しくもみちのく大賞典で、両レースともモリユウプリンスに敗れている。これも何かの因縁かもしれない。

若き日の菅原勲騎手とともに岩手の歴史に名を刻んだトウケイニセイ
写真:1993年みちのく大賞典
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