これまで、北は山形・上山、新潟・三条から南は大分・中津、熊本・荒尾まで、廃止された競馬場の跡を訪ねて記事にしてきた。今回はその最終回。“番外編”として、北海道の“いまはなき競馬場”を取り上げる。
今も競馬は続いている
前回までここでご紹介してきたのは、すべて地方競馬の開催がなくなってしまったところだ。しかし、北海道は違う。道営競馬(=ホッカイドウ競馬)は門別、ばんえい競馬は帯広の競馬場で、それぞれ今も競馬が続けられている。とはいえ、ホッカイドウ競馬もばんえい競馬も、20年ほど前までは複数の競馬場を使ってレースが行われていた。
私が地方競馬場巡りを始めた昭和の終わりの頃(1980年代)には、道営競馬は旭川、岩見沢、帯広に加えJRAの札幌と函館を使用。ばんえい競馬は、今の帯広のほか、北見、旭川、岩見沢の4場を転戦していた。このうち北見はばんえい専用。旭川、岩見沢、帯広は道営とばんえいの併用だった。ただし、互いに時期をずらして開催されたため、2つの競馬が同じ競馬場で同時期に行われることはなかった。
今回取り上げるのは、旭川、岩見沢、北見の3場なのだが、この3カ所には、それぞれ訳があって、実際にその跡地を訪れることはできなかった。
旭川はタイヤメーカーの施設に
振り出しは旭川。同競馬場は旭川市神居町雨紛(かむいちょううぶん)にあった。旭川駅からは送迎バスで南へ20~30分ほど、タクシーだと約20年前でも3000円くらいかかったと思う。小高い丘の上にスタンドと馬場、駐車場、厩舎がしつらえられていた。
その後、跡地は横浜ゴムの北海道タイヤテストセンターに生まれ変わっている。同社に見学を申し入れたが、残念ながら断られてしまい、跡地を訪ねることはできなかった。
最新のGoogle空中写真を見ると、テストコースと思われる舗装路の中に、平地競走の馬場跡らしきものが写っている。とくに、施設の北側にある“円”の内側には、右回りだった周回コースの1、2コーナー跡を確認できる。
その外側と、それとは反対の南側には、半円状の“黒い点線”が見える。これは、競馬場の周回コースに沿って植えられた木々。もちろん、南側は3、4コーナーの跡を示すものでもある。
3、4コーナー跡の“点線”のさらに南側は、かつて厩舎が建ち並んでいたエリア。今、そこにはサーキットを思わせるような、カーブの多いテストコースが設けられている。
施設の西側には細長い建物と四角い建物が並んで建っている。一見すると競馬場のスタンドのように思えてしまうが、そこは以前、入場門とスタンドとの間だった部分。細長い建物のあたりにパドック、その東側にスタンドが建っていた。
かつてのばんえい競馬のコース跡は、空中写真の“白丸”とその南側に2本並ぶ“白い棒状”の舗装路(?)の部分と思われる。南側からスタートして北側のゴールへ向かっていたので、レースは南側の厩舎からだんだん遠ざかる形で進められた。“帰巣本能”を持つ馬が“住まい”から離れるのを嫌い、ひどいときにはレース途中で引き返そうとするため、波乱の要因になることもあった。
ここでの競馬は、ばんえいが2006(平成18)年、道営が2008(平成20)年で幕を閉じた。道営が旭川でナイター開催(グランシャリオナイター)を始めたのは1994(平成6)年から。ばんえいが夏の昼に岩見沢で開催していた頃は、昼のばんえいと夜の道営を“はしご”することもできた(私もそれを“敢行”したことがあった)。
岩見沢はほぼ“ほったらかし”
岩見沢も道営とばんえいの併用だった。競馬場があったのは、地図上ではJR岩見沢駅の真東、市街地の町並みが途切れる岩見沢市日の出町444番地。スタンドからは駅のある方角に広がる石狩平野がよく見えた。
こちらは跡地転用が進まず、今はほとんど“ほったらかし”にされている。入口は固く閉ざされ、中を覗くのも難しい状況とのこと。現場を訪ねてもあまり意味はないと思い、探索を断念した。
そこで再びGoogle空中写真を見た。敷地の西どなりには南北に走る一般道路、南側には入場門と駐車場があったが、それ以外は林に囲まれていた同競馬場。空中写真からも、それら周囲の様子に大きな変化はなさそうに感じられる。
競馬場のスタンドは解体されずに残っているようだ。その北側に広がる周回コースの跡と、スタンド西側にあったパドックの跡も確認できる。さらに、2コーナーの外側、一般道路を挟んだところにある緑地と、向正面に沿った林と東西に走る道路に挟まれた緑地は、かつての厩舎跡。それぞれの緑地の内側が細かく仕切られているのはそれを示す証、その区画の中に各厩舎の建物が建ち並んでいたわけだ。
岩見沢もばんえいのコースが周回馬場の内側にあったが、その跡は見当たらない。これは旭川と同じだ。また、『昭和45年版地方競馬場施設概要』によると、1200メートルの周回コースの3、4コーナー内側に、1周1000メートルになる内回りコースが設けられていた。大井や京都、阪神と同じようなコース形態だったわけだ。私が1986(昭和61)年に初めてばんえいの観戦で岩見沢を訪れたとき、すでにそれはなくなっていた。今の空中写真で見ても、その跡は確認できない。
道営競馬は1997(平成5)年限りで同競馬場での開催を終了。岩見沢で最後に競馬が行われたのは、2005(平成17)年、毎年恒例だったばんえいの夏開催だった。
競馬場跡が“ほったらかし”になっているのはなんとも残念だが、JR岩見沢駅では今も競馬場があった頃の名残を見ることができる。3、4番線ホームにある“ばん馬の像”だ。競馬が行われていた頃から駅構内でひときわ目立っていたその像には、ソリを曳くばん馬の姿が見事に再現されていている。これほど迫力ある馬の像はなかなか見られない。末永くそこに残されるよう、祈るばかりだ。
ばんえい専用の北見
北見市郊外、若松地区の丘の上にあった北見競馬場はばんえい競馬専用に作られた。先代の競馬場は現・東陵公園にあり、そこではかつて平地競馬も行われていたが、1958(昭和33)年からはばんえいだけの開催となり、それが1974(昭和49)年に若松の新競馬場に移された。以来、最後の競馬が行われた2006(平成18)年11月27日までは、世界で唯一のばんえい専用競馬場だった。
ここは今、北見工業大学が北見市から借り受ける形で研究施設として利用されている。同大学に取材可能かどうか問い合わせたところ、市の判断次第では対応できるかもしれない、とのこと。そこで今度は北見市にあたってみた。ちょっと期待を抱いていたのだが、市から返ってきた答はNO。理由は、廃止当時からそのまま手つかずになっている場所もあり、安全が保証できないから、だそうだ。またしても現地探訪はあきらめ、Google空中写真に頼ることにした。
競馬場の敷地やスタンドなどは、廃止された当時のままに残っているようだ。スタンドの西側に沿って平行に並んで建つ細長い建物はかつての馬券売場。私が北見競馬場を初めて訪れたのは1986(昭和61)年のことだが、その当時はすでにファンの休憩所として使われていた。また、さらにその西側にあったもう1つの細長い建物には食堂が入っていた。それはプレハブ造りだったが、今もそのまま残っているように見える。一方、休憩所の北側にあったパドックは何かに転用されたようで、岩見沢ほどハッキリと確認することはできない。
北東から南西の向きで建てられたスタンドの東側、建物とは平行に、ばんえいのコース跡らしきものが見える。その右側、1コース沿いには生垣のような“濃い太線”もあり、そのあたりをズームしてみると、コースを挟んでスタンドの反対側にあった着順判定写真を撮影するタワーや照明塔、さらには電光掲示板の影と思われるものが写っている。市が言うように、今も競馬開催時に使われていた施設がそのまま残っているらしい。
敷地の北側は厩舎地区だったところ。そこに写っているいくつかの細長い建物は、かつての厩舎だろうか?競馬開催時にはもう少し多くの建物が並んでいたはずだが、いくつかは取り壊されているようだ。写真に写っている建物も建て替えられた施設かどうかはわからない。
空中写真からは、平地の周回コースの跡のようなものも見てとれる。ばんえい専用だったのに周回コースがあったのはどういう訳か?それは、この競馬場が建設された当時、地方競馬場には1周1000メートル以上の周回馬場を擁すること、という規定があったから。北見で平地を行う見込みはなかったが、この規定に従って、“ダミー”の馬場が設けられた。もちろんそれを使ってレースが行われたことはない。
空中写真で見る限り、北見は旭川、岩見沢よりも競馬があった頃の名残を今なお色濃くとどめているようだ。それらがなくなってしまう前に、その跡を訪ねることは難しそうだ。
帯広の平地競馬の跡
北見の廃止後、世界で唯一のばんえい競馬専門競馬場となった帯広競馬場でも、1997(平成9)年までは道営の平地競馬が行われていた。
その跡はいくらか残っている。2025(令和7)年6月、ばんえい競馬を観戦した際に、そこを探訪してみた。
平地競馬の跡は、今の競馬場の東側、南北に延びる一般道路のさらに東側にあった。右回りの3、4コーナーとその内側の部分が半月状の空き地になっている。コースに沿って建てられた塀が当時のままに弧を描いていて、その曲がり具合から周回コースがあったことを想像できる。
帯広競馬場の土地は十勝農業組合連合会(十勝農協連)が所有している。同会のビルと駐車場が一般道路を挟んで空き地とは反対の西側にある。それらも一般道路も、帯広がばんえい専門の競馬場になった後、最近になってできたものだ。一般道路は同会が所有する土地の一部を提供して建設された。今のところ、その東側の半月状の土地に何かができる気配はない。今後しばらくは周回コースがあった頃の面影を見ることができるだろう。もちろん、今の競馬場のスタンドは当時から使われている建物だが・・・。
廃止された競馬場を知る関係者の話
ホッカイドウ競馬の調教師や騎手、ばんえい競馬の調教師の中には、いまはなき競馬場のレースに騎乗していた方々が今も活躍されている。そこで、何人かの方にそれぞれのコースの特徴などを伺ってみた。
まずはホッカイドウ競馬の松本隆宏師、川島洋人師、井上俊彦騎手の話から。
◎旭川=松本師「好きな競馬場。小回りだけどコーナーも乗りやすかった」。川島師「3場(旭川、岩見沢、帯広)の中でいちばん乗りやすかった」。井上騎手「山の上にあったが、夏の開催が多く暑かった。4コーナーに馬の出入口があり、そこから厩舎に帰ろうとする馬がいた。とくに2歳馬はそこで外に膨らむ馬が多かった」。
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1990年ステイヤーズカップ 優勝=タキノニシキ・井上俊彦騎手
(出典:月刊『ハロン』1990年10月号) -
2000年栄冠賞 優勝=カネマサヘイロー・川島洋人騎手
(出典:月刊『ハロン』2000年8月号)
◎岩見沢=松本師「1コーナーがきつく厳しいコースだったが、自分はあまり気にならなかった」。川島師「ここでデビューしたので思い出深い」。井上騎手=「小さな馬場で、旭川とは逆に1コーナーで外に張る馬が多かった」。
◎帯広=松本師「ほかに比べると直線が長く、差しもよく届いた。ここはワリと得意だった」。川島師「自分との相性はあまりよくなかった」。井上騎手「なくなった競馬場の中ではいちばん乗りやすかった」。
◎その頃の思い出をまとめると?=松本師「それぞれの土地での食事が楽しみだった」。川島師「初めて重賞勝ちした旭川には、いい思い出がたくさんある。反対に帯広はなかなか勝てず苦手だった」。井上騎手「その土地その土地でおいしいものが食べられて楽しかった」。
続いて、ばんえい競馬の金山明彦調教師、久田守調教師、坂本東一調教師の話。
◎旭川=金山師「海砂で締まらない。ぬかる、というか、重い馬場。しかも、4場(旭川、北見、岩見沢、帯広)の中では第2障害を降りてからがいちばん長かった。だから、障害を降りた後が勝負だった」。久田師「ここだけ、厩舎がスタート地点の後ろにあった。馬は厩舎に帰ろうとするので、それをゴールまで持って行くのに気を遣った」。坂本師「馬場がぬかって重い。スピードが出ず、時計がかかった。厩舎がゴールと反対側にあって、そこへ帰ろうとする馬もいて、馬がゴールラインをまたいで寝て(横たわって)しまうこともあった。刻んで行って持たせるようにした」。
◎北見=金山師「ここだけはスタート地点よりゴールラインのほうが高くなっていた。その分、全体で見ると上りになっているということ。第2障害を降りてゴールの手前までが緩い上りなので、一気に行ける馬は少なかった。力のある馬じゃないとダメだった」。久田師「スタートからゴールまでが上り。足抜きが悪かった。障害は低かったが、降りてからが勝負。ソリの後端がゴールラインに入るまで気を抜けなかった。力が強い馬に有利だった」。坂本師「砂が細かかった。第2障害を降りてからが上りだったので、ちょっと後ろから少し抑え気味に行っても間に合う。そういうことを考えながら乗っていた」。
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1986年農林水産大臣賞典 優勝=キンタロー・金山明彦騎手
(出典:月刊『地方競馬』1987年2月号) -
1991年ばんえい優駿 優勝=クレシェンドボーイ・久田守騎手
(出典:月刊『ハロン』1991年7月号)
◎岩見沢=金山師「今の帯広に似て馬場は軽かった。第2障害の上りも下りも坂がなだらか。スピード優先のコースだった」。久田師「ここでのレースはスピード競馬。第2障害を上る面が長かったので、登坂もしやすかった。ほかの3場に比べるとちょっと独特だった」。坂本師「もうここはイケイケ。第2障害の下りも長いので、そのクリアさえ失敗しなければ、下りからの惰性で後はキャンターでも行けた。雨が降ると砂が締まるので、なおさらスピード馬場になった」。
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1996年岩見沢記念 優勝=ダイヤキャップ・金山明彦騎手
(出典:月刊『ハロン』1996年11月号) -
1997年ばんえいグランプリ 優勝=コーネルトップ・坂本東一騎手
(出典:月刊『ハロン』1997年10月号)
◎3場での乗り方などの思い出は?=金山師「同じ200メートルのコースでも、砂が違っていたり、障害の高さや坂の角度、第1障害と第2障害の間や第2障害からゴールまでの間の長さに違いがあったりして、変化があっておもしろかった」。久田師「それぞれの競馬場で勝てそうな馬を選んで乗るようにしていた。だから良い成績を残せた(笑)」。坂本師「馬によって向き不向きもあったが、4場の違いに合わせて馬を調教するようにしていた」。
そして、ばんえい競馬専門紙・『ホースニュース馬』の記者だった小寺(こてら)雄司さんの話。
◎旭川=厩舎がスタート地点の後ろにあって、帰巣本能のある馬がゴールへ向かうのを嫌がる、というのは、後付けの言い訳だと思う。馬場は重かった。第2障害を降りてからが長く、そこでの“行きつ止まりつ”があって、いかにもばんえいらしい勝負が見られた。ここで強かったのがアキバオーショウ。とくに山本正彦騎手とのコンビで旭川巧者ぶりを発揮していたのが印象深い。
◎北見=雨の多い時期に開催されることが多く、馬場が湿りがちだった。ここを得意にしていたのがアサギリ。“ノド鳴り”(喘鳴症=ぜんめいしょう)の馬で、湿気があるほうがよかったのだろう。厩舎もそのつもりで仕上げてくるので、北見のアサギリは“買い”だった。
◎岩見沢=ここは馬場状態の変化が大きかった。晴れの日はもちろん馬場は乾くが、天候は不順。突然の雨で一気に軽馬場になってしまうことがよくあった。他の3場(帯広も含む)に比べて特徴がないのが特徴みたいなもので、騎手はとにかく先へ行かせようとする。そういうイケイケのレースを得意とした皆川公二騎手は岩見沢で好成績を挙げていたはずだ。
◎4場で行われていた時代だからこその話は?=昔は冬の開催ができなかったので、その間は調教師の地元に馬も人も帰っていた。岩見沢や旭川のあたりは雪が多くて冬の間は馬が運動不足になる。それに比べて帯広のあたりは晴れる日が多いので休みの間もしっかり調教できた。だから、春の開幕直後は帯広の馬を狙え、という鉄則があった。
これらの話を比べてみると、ばんえいのほうが競馬場によるコース形態や狙い馬の決め方などの違いがあって、変化に富んでいたようだ。
その競馬が帯広だけで開催されるようになって、今年(2026)年はちょうど20年目。
今のばん馬の形は、岩見沢に似て、スピードが要求される帯広のコースに合ったものになっているのかもしれない。
ばんえいの名実況アナウンサー
ここでもう1人、ばんえい競馬で長く場内実況に携わってこられた井馬博さんの話もご紹介しておく。
井馬さんは北見の出身。若い頃は高校野球の実況アナウンサーに憧れていた。また、あの杉本清さんの競馬実況もよく耳にしていたそうだ。
東京の大学を卒業して札幌の会社に務めていた頃、知人の結婚式の余興で架空の競馬実況を披露したところ、久田守現調教師のお兄さんにウケて、ばんえい競馬の場内実況をやってみないかと誘われた。
その当時のばんえいでは、各競馬場の従事員が実況を担当、馬名をほとんど言わずに馬番を連呼していたという。もともとスポーツアナウンサーに憧れていた井馬さんは、すぐに“運命の誘い”を承諾。1980(昭和55)年の岩見沢競馬でデビューした。もちろん、結婚式で披露した架空実況も、デビュー後のホンモノの実況も、杉本清さん風の口調。それでも、「各馬刻みながら1、2障害の中間点を通過、徐々にばんえいの勝負どころと言われております第2障害に近づいて参りました。「さぁ“ばんえいポイント”(第2障害のこと。井馬さんが初めてそう呼んだ)、問題はここからであります」などの“決まり文句”を交えた、井馬さんならではの実況スタイルを築き上げていった。
ほかにも、快晴の北見競馬場では「“オホーツクブルー”の空が一杯に広がっております」とか、同じく晴天の帯広では「“十勝晴れ”に恵まれましたきょうの帯広競馬場」など、井馬さんの実況には独特のフレーズや単語がちりばめられていた。
井馬さんは2012(平成24)年3月に現役を退くまで、30年以上にわたってほとんど1人で場内実況の仕事を続けた。その井馬さんが「一番の思い出」と語ってくださったのが、実況を始めて1年ほど経った1981(昭和56)年夏の岩見沢競馬での出来事。先に書いたように札幌に住んでいた井馬さんは、国鉄(今のJR)で岩見沢に通っていた。その夏、台風が北海道を襲い、国鉄が各地で不通になってしまった。「競馬は中止か、と思っていたら主催者から電話があり、開催するのでなんとしても競馬場に来てくれ、とのこと。そこでタクシーを飛ばしてどうにか間に合わせました。あの時の冷や汗は忘れられませんね」とのことだ。
実はこの時、岩見沢競馬観戦を含め、北海道内を巡る旅行を予定していたのが、大学3年生だったこの私。しかし、国鉄を乗り継ぐ旅を予定どおりに進めることができなくなり、切符や宿の予約をすべてキャンセルした。そして、浮いたお金で甲子園の高校野球観戦に出かけ、そのついでにスタンドで試合の実況を録音した。私も井馬さん同様、スポーツアナウンサーに憧れていて、大学ではアナウンス研究会に籍を置いていたのだ。
その後、この時の実況が文化放送の採用担当者に認められ、めでたくアナウンサーとして入社を果たした。もしもあの時、北海道旅行に出かけていたら、今の私は存在しなかったかもしれない。井馬さんに冷や汗をかかせた1982年の夏は、わたしにとっては“運命の分かれ道”となった夏でもある。
なくなった競馬場の思い出
いまはなき岩見沢、旭川、北見と道営競馬が行われていた頃の帯広の思い出はたくさんある。
岩見沢は1986(昭和61)年7月に初めてばんえい競馬を観戦したところ。岩見沢駅から競馬場へ向かう送迎バスに次から次へと年配のご婦人方が乗りこんできて、口々に「きょうはキンタローが出るから見にいかなきゃ」と言っていた。「へぇ~、そんなスターホースがいるんだ」と思ったら、その馬が直後にばんえい初の“1億円馬”になった。
同年12月、そのキンタローが10歳(数え年)で定年引退する、最後のレースは北見の蛍の光賞だと聞いて、今度は北見を訪れた。当時の蛍の光賞は引退馬の限定戦。オープン馬もいれば条件馬もいるというメンバー構成で、収得賞金によってばんえい重量を加増していく仕組みになっていた。その1週前、農林水産大臣賞典(通称・大臣賞。今のばんえい記念)を制したキンタローは“トップハンデ”。さすがにこれでは軽量馬に勝てないと見られた同馬の馬券はあまり売れていなかった。しかし、せっかく見に来たんだから、と思った私はキンタローを軸にした。すると、いつもは後ろから行って勝っていたというキンタローが、そのレースではほとんど先頭で第2障害を越え、2着に粘り込んだ。私はけっこうな好配当をゲット。それよりも、重いソリを曳いて最後のゴールラインにたどり着いたキンタローの姿を見て、目頭が熱くなった。
翌日も開催があったので、送迎バスで競馬場へ。その車中で「きのうはレースを見て泣いているヤツがいたなぁ」という話し声が聞こえてきた。「自分のこと?」と思って、今度は顔が赤くなった。
旭川のばんえい競馬は、調教師の方々の話にもあるとおり、最後までわからない勝負が多くおもしろかった(その分、馬券を当てるのは難しかったが)。旭川のホッカイドウ競馬では、「全国実況アナウンサー祭」も開催した。その打ち上げ会場として、亡くなった小枝佳代さん(当時はホッカイドウ競馬の場内実況を担当)が選んだのが、魚や貝が宙を飛ぶ店。各テーブルに囲炉裏があり、その上の網をめがけて、店主が魚や貝を放り投げる。そのコントロールが絶妙だった。宴会場の隣には、風呂好きの店主が作った岩風呂もあって、みんなで代わる代わるそれに浸かっては、飲めや喰えやの大宴会を繰り広げた。
まだまだ思い出話は尽きないが、ここではこのへんで。道営にしてもばんえいにしても、道内を転々としながら競馬を開催していた頃は、見る側にとっては変化があって楽しかったが、厩舎関係者はタイヘンだったようだ。例えて言えば、旅回りの演劇一座やサーカスのようなもの。数カ月おきに引っ越しをしなければならない。厩舎関係者の子供たちは、その都度、転校を余儀なくされていたという。かつてばんえいでは数少ない女性騎手として活躍した佐藤希世子さんに聞いた話では、厩舎に大型の家具はなく、身の回りのものは持ち運びに便利な収納ケースに詰め込んでいたそうだ。当然ながら引っ越しには経費もかかった。
そんな北海道ならではの苦労は、なくなった競馬場の思い出とともに、遠い昔の話になった。
























矢野吉彦(やのよしひこ)
1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は293カ所に及ぶ(2026年3月末現在)。