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シリーズ~あの地方競馬場はいま~ 第2回・荒尾競馬場編


矢野吉彦

2023.8.16 (水)

競馬場跡とBAOO荒尾

荒尾競馬場跡を訪ねたのは今年(2023年)1月。JR鹿児島本線荒尾駅を出て、知る人ぞ知る名店「山口うなぎ屋」のタレ飯鰻丼C(タレをまぶしたご飯に蒲焼き鰻一尾分が乗っている)で腹ごしらえしてから“現場”に向かった。

そこでは、スタンドの解体工事が始まったばかり。建物の大部分は残っていたものの、周りは白いフェンス(スタンドのコース側はビニールシート)で囲まれ、入場ゲートや食堂、パドックはすでに跡形もなくなっていた。

馬場があったほうに回り込んでみた。だだっ広いコース跡の真ん中にはBAOO荒尾が新設されている。その脇に建つアーチには見覚えがあった。それは、かつての競馬場のゴール板に彩りを添えていたもの。そういう形で、そこが競馬場だった証を残したようだ。

その日、BAOO荒尾では名古屋とばんえい帯広の馬券を発売していた。せっかくなのでばんえいの馬券を少々購入して施設内を見学。すると、その一角に荒尾競馬場のメモリアルコーナーを見つけた。展示されていたのは、レースや競馬場の様子などを写した写真数枚と、コース形態がわかる空中写真のパネル。それに、荒尾競馬沿革と題した年表だ。

メモリアルコーナーのすぐ隣には小さな庭のような場所があり、そこに古びた石碑が建っていた。正面には「荒尾競馬場」の文字と、碑を建立した発起人3名の名前が刻まれている。これは1928(昭和3)年の競馬場開設を記念して建てられたもの、とのこと。初めは競馬場の内馬場にあったが、後にパドック付近に移され、BAOO荒尾オープンにともなって再移設されたそうだ。“ゲートアーチ”にメモリアルコーナーに開設記念の石碑。競馬場の名残がこんなに見られるBAOOは他にないかもしれない。

ちょうどその時、あの部分が

BAOO荒尾でしばらく過ごした後、かつてのコース側からスタンドを眺めに行った。白いビニールシートの内側では、巨大な重機が容赦なく建物を解体していた。恐竜の口を思わせる重機の先が引きちぎっていたのは、かつて決勝審判室や記者席、さらには実況席があった部分だった。

荒尾の実況席には思い入れがある。2003年3月に、日本各地の“仕事仲間”を集めて『全国競馬実況アナウンサーフェスティバル』を開催したからだ。その“思い出の場所”が今まさに取り壊されている。「なんでこんな日にここに来たのだろう」。ちょっと感傷的な気持ちになった。でも、それもつかの間。あまりの重機の迫力に圧倒され、「こういう光景はめったに見られない」と、解体作業にしばし見入ってしまった。

猫はなぜ鳴き続けていたか?

コースの跡にはBAOO荒尾の駐車場や、それにつながる道路などが整備されていた。しかし、本格的な跡地の再開発は手つかずのまま。スタンドの解体工事以外に、何かの作業をしている様子は見られなかった。

その中を歩きながら、競馬場があった頃と変わらない遠くの景色を眺めていたら、猫の鳴き声が聞こえてきた。あたりを探すと、白いビニールシートの前でポツンと1匹、白黒の猫が休むことなく鳴き続けていた。他に猫の姿はなく、私以外に人の気配もない。私が近づいても逃げようとせず、ひたすら鳴き続けるばかり。なんとも不思議な猫だった。

こんなことを書くと笑われるだろうが、ひょっとしたらあの猫は、遠くの誰かに向かって叫び続けていたのかもしれない。「もうすぐ競馬場のスタンドが跡形もなくなってしまうよ」と。

〈追記〉

1月の“探訪”から約半年、23年6月末に別の用事で熊本に行った際、再度“現場”を訪れてみた。すでにスタンドや「荒尾けいば」と書かれた標柱などの解体、撤去は完了していた。巨大な建造物がなくなって、競馬場裏の国道からは遠くの景色がよく見えたが、あの猫の姿は当然ながら(?)見当たらなかった。

元荒尾競馬場職員・川上信明さんの話

競馬場では主にスターターや馬場管理の仕事をしていました。

荒尾の自慢といえば馬場。武豊騎手が「乗りやすい」と言ってくれたほどですから。1、2コーナーのカーブは小さいけど、3、4コーナーの膨らみが大きくて、地方の競馬場にしては直線も長め(約250メートル)。けっこう追い込みも利いたんです。

それと何より砂がよかった。もともとはあまりいい砂ではありませんでした。しかも、調教用の内馬場がなくて本走路で調教もやっていたため、状態が悪かったんです。JRAとの交流競走を実施するにあたり、小倉や美浦に行って馬場についていろいろ教えてもらいました。そうした中、地元の業者さんが壱岐の島でいい海砂を見つけてくれました。ゴルフ場のバンカーで使われていたもので、水はけがよく、足抜きがいい砂でした。これを船で運んで導入したら、格段に馬の故障が減りました。その後、佐賀でもその砂を使うようになったはずですよ。

思い出に残る騎手ですか?スターターとしてレースを見ていた時には、やはりスタートのうまい騎手に目が行きましたね。後藤孝鎮(ゆきやす)という騎手は、どんな馬に乗ってもスタートを決める、天才的なところがありました。他では川口道助騎手。スタートもそうですが、レース運びが巧みだった。それと、細原邦央(くにお)騎手。乗っていた期間は短かったですが、印象に残っています。騎手をやめてから勉強して大学を出て、スポーツニッポンの競馬記者になった人です。

馬ではキサスキサスキサス。2002年から2003年まで24連勝をマークして新聞などにも取り上げられ、競馬場のPRにも貢献してくれたと思います。

競馬場の廃止が決まってからは、厩舎関係者の再就職先を探して日本中を回りました。その結果かどうかはわかりませんが、何人かの調教師や騎手、厩務員が他場に移籍できたのはよかったと思っています。

元荒尾競馬場職員・桑野史朗(ふみあき)さんの話

競馬場が廃止になるまで、38年にわたって競馬に関わってきました。主に携わったのは総務や広報の仕事でしたね。

競馬場が賑わっていたのは1997(平成9)年の三井三池炭鉱の閉山までです。1973(昭和48)年から馬券発売機が導入され、200円券と1000円券(特券)の発売が始まりました。その直後、1976(昭和51)年に売上がピークに達しました。

馬券発売は機械化されても、的中券の払い戻しは手作業のまま。本命の馬が馬券に絡んだ時は払戻窓口に大行列ができました。払い戻し金を受け取ってから次のレースの馬券を買うのにまた大行列。できるだけ多くのお客さんに馬券を買ってもらうため、発走時刻を遅らせることがよくありました。その時代は他の競馬場もそうだったと思いますが、10分遅れなんていうのはザラだったですよ。

例えば買い目1点を10万円分、200円券で買うと500枚になりますよね。それを払い戻し窓口に持ってこられると、係員は的中券かどうかを確認して1枚ずつ、計500回、払い戻し済みのスタンプを押さなきゃいけない。お客さんの中には、大量の的中券の中に数枚のハズレ馬券を紛れ込ませて、不正に払い戻しを受けようとする悪い人がいました。そんなこんなで、その頃の窓口業務はとにかくタイヘンでした。

崎谷彦司・元調教師の話

叔父さんが調教師で、私の中学時代の身長150㎝、体重が43㎏と小さかったので騎手を目指しました。1972(昭和47)年9月に地方競馬教養センターの試験を受けて10月に入所した“20期生”です。同期には的場文男、森下博(川崎)、山崎尋美(同)、保利良次(兵庫)らがいます。

半年間、訓練を受けて翌年秋にデビューしました。ミスカイフウという馬です(1973年10月13日、第6レース)。初めてのレースは全然ダメ。もっとやれるかと思っていましたが、他の馬についていけなかった。実戦は想像以上に厳しかったです。それでも何とか4着に入って、次のレースで勝ちました(同日のメインレース『アラブ系D級特選』)。それまで兄弟子が乗っていたダイイチユキマサルを任され、3コーナーで仕掛けただけで勝てました。まぁ馬に初勝利をプレゼントしてもらったようなものですよ。

思い出の騎乗馬を1頭あげるとすればトビアラシですね。私がデビューした頃にオープンで活躍した馬で、後方からひとまくりして勝つというのがパターン。馬が勝負どころを覚えているみたいで、後ろのほうを走っていても3コーナー手前で外に出すと4コーナーではもう2、3番手。直線で楽に抜け出して勝ってしまう。ふだんは腰がフラフラして倒れそうな馬なのに、レースに行ったら違うんです。当時の馬場で上がり34秒、1400メートル戦のレコードを作ったこともありました。

当時の馬場は川砂で、雨が降ると泥になって馬にも騎手にもまとわりついてきました。ズボンに付くと洗濯しても落ちない。白いズボンがすぐに黒ずんでしまうほどでした。トビアラシはそんな馬場も苦にしなかったですね。この馬にはレースの流れやら何やら、いろいろと教わりました。

騎手時代の信条は「レースは頭で乗る、考えて乗る」ということ。ハナ差でも勝ちは勝ちですが、私は1馬身離して勝つためにゴールからの逆算をしました。4コーナーではこの位置、3コーナーではここ、だったらスタートはこういうふうに、とね。レース中に「ここに突っ込もう」と思ってももう遅いんです。

新人の頃は本命の馬に乗っても思うように勝てず、キツいと感じたこともありました。でも、本命馬は勝ちそうだと思われている馬であって、勝ってくれと言われているわけじゃない。負けたことはタバコ1本で忘れて次に切り替えるようにしました。教養センターでは「ファンは命の次に大事な、人によっては命よりも大事な金を賭けている。中途半端な気持ちで乗るな」と常に言われました。実際に乗ってみると、なかなかうまくいかないことが多いんですけどね。

調教師になってからは、当然ながら厩舎で働いてくれる人たちを雇う立場にもなったわけですが、競馬が廃止され、多くの仲間が次の仕事を求めて全国各地に散らばってしまいました。私は今、佐賀で馬主をやっているので、昔の仲間の何人かとは時々顔を合わせています。競馬場の跡地にできたBAOOにもよく行っていますよ。競馬場で予想紙を売って場立ち予想をしていた人がBAOOで売店をやっていて、昔話をしながら馬券を買うのが今の楽しみですね。

吉留孝司騎手の話

中学3年生の夏休み、知り合いの人が競馬場に連れて行ってくれました。そこで、「騎手という仕事がある」ということを知ったんです。それで、秋から厩舎に入らせてもらいました。朝4時から7時半まで厩舎の仕事を手伝った後、学校へ行って、帰ったらまた厩舎の手伝い。中学卒業と同時に正式に“入門”して、騎手としてデビューしたのが1986(昭和61)年の10月、17歳の時でした。

もともとが人見知りで、デビュー当時はパドックを回っていてもお客さんのほうを見られない。いつも下を向いていました。レースでも迫力がなかった。いつも後ろからの競馬。なかなか勝てませんでした。デビューから半年で20数頭の馬に乗せてもらい、勝てそうな馬を任されたこともありましたが勝てなかった。よく「覇気を出せ」と言われていましたね。

年度が変わった87(昭和62)年の4月になって、やっと1勝できました。デビュー当時、目標というか、模範にしていたのは牧野さん(牧野孝光騎手)。どんな馬に乗っても姿勢を崩さない。慌てることがなかったです。

その頃の馬に、ベナクインがいました。騎手としてデビューする前から仕上げていた馬で、私が乗ってから連勝し始めたんです。Bクラスの馬でしたが中団からの差しが得意。この馬のおかげで周りが見られるようになって、自信が付きましたね。

すると、だんだん負けたくないという気持ちが強くなって、レースの映像をよく見て研究するようにもなりました。馬の全能力を発揮させて勝つにはどうしたらいいかを考えました。馬にもレースを教えてもらいましたが、その中ではポイントジャックという馬が印象に残っています。頭が良くて、GOサインを出せば一気にスパートしてくれる。どこからでも競馬ができるような馬でした。10連勝した後、夏の休みをはさんでまた10連勝、あわせて20連勝しました。

それから後は順調だったわけではなく、なかなか勝てずに騎手をやめようと思ったこともありました。でも、馬主さんや先輩から「もうちょっと頑張れ」と言われて、あきらめずに続けました。結婚して子供が生まれたのが転機になったと思います。責任感が芽生えたからでしょうね。だんだんとまた勝てるようになりました。そうなると、お客さんのヤジが応援に変わったんです。「何をしてるんだ!」が「頼んだぞ!」っていうふうに。

私が乗り始めた頃の馬場はよくなかったですね。横すべりするような感じで、危なかったです。路盤改修と砂の入れ替えがあって、いい馬場になりました。ただ、向正面のすぐ先が海でしょう?雨風の強いときは、調教やレースの最中に波しぶきをかぶってしまうんです。口の中に潮が入ったこともたびたびありましたよ。

競馬が廃止になると決まったときには、「この先どうなるのか、でも、自分1人ではどうしようもない、自分は乗るしかない」と複雑な思いになりました。とにかく乗れるところを探したのですが、初めは南関東に行く考えはなかったですね。ただし、佐賀はなんとなく行きたくなかった。荒尾から佐賀に遠征してケガをすることがよくあったからです。どうも佐賀には行かないほうがいいと。浦和にはいろんな方々の縁で所属することになったんですが、何もわからないところで最初は不安でした。でも、自分は「乗るしかない」ですからね。

〈吉留孝司騎手プロフィール〉

1969(昭和44)年2月6日生まれ。1986(同61)年10月27日、荒尾競馬場で騎手デビュー。翌87(同62)年4月6日第5レース、ハローエンジェルで初勝利。2003(平成15)年に106勝、04(同16)年に84勝をマークして荒尾競馬リーディングジョッキーとなった。同競馬場では1538勝(中央競馬での1勝を含む)を挙げ、廃止に伴い浦和競馬場に移籍、2012(平成24)年1月以降は主に南関東で騎乗を続けている。

荒尾競馬場の思い出

荒尾は、私の競馬場巡りの“スタート地点”になった競馬場だ。

1984(昭和59)年11月、文化放送の局アナだった私は、『大相撲熱戦十番』という相撲中継番組の仕事で福岡に滞在していた。初日前日の土曜日、空き時間ができたので、どこかに何かを見に行こうとスポーツ紙を広げた。すると、目に飛び込んできたのが「荒尾競馬」の文字。それまで見たことも聞いたこともない場所で競馬をやっている。地図と時刻表で調べると、福岡からなら電車で行って来られることがわかり、何はともあれ行ってみた。

そこで出会ったのは、初めて目にする独特の体裁の競馬専門紙と東京近辺にはない海を望むコース。地元弁のヤジも印象的で、大げさに言えばカルチャーショックのようなものを覚えた。ちょうどその頃、山口瞳さんの『草競馬流浪記』という本が出て、それを読んだこともあって私の地方競馬巡りがスタートした。

荒尾での一番の思い出は場内食堂での“事件”だ。もう20年以上前のこと。荒尾ではたいがいチャンポンや豚骨ラーメンを食べていた私が、その時は珍しくカツ丼を頼んだ。私とほぼ同時に、1人のオジサンが店に入った。オジサンの注文は「グュウドン」(私にはそう聞こえた)。牛丼かと思ったが、実はその食堂には具うどんというメニューもあった。荒尾とは有明海をはさんで向かい合っている島原には、かまぼこや玉子焼き、しいたけなどを載せた具雑煮という郷土料理がある。具うどんは、具雑煮の餅をうどんに替えたものだろう。

店のオバチャンは「牛丼?具うどん?」と何度も聞き返していたが、オジサンは「グュウドン」としか言わない。ひと仕切りそういう堂々巡りが続いた末に、オバチャンは「牛丼ね」と念を押して、厨房に「牛丼1つ」と伝えた。

しばらくして、オジサンの元には、私が注文したカツ丼が運ばれていった。別のオバチャンが間違えて持って行ってしまったのだ。するとそのオジサン、何のためらいもなくそのカツ丼を食べ始めた!「あのやり取りは何だったんだ!!!」。結局、私はオジサンが頼んだ牛丼を食べることになった。その後、間違いに気づいたオバチャンは、私とオジサンにそれぞれ50円を返してきた。

この“事件”のことを、当時担当していた『東京スポーツ』のコラムに書いたところ、地方競馬の情報誌『月刊ハロン』の編集長だった斎藤修さんの目にとまり、ほどなく同誌のコラム執筆も仰せつかるようになった。それは「グュウドン」オジサンのおかげでもある。ちなみに、カツ丼と牛丼は同じ価格だったと思う。私に対する“返金”はいいとして、オジサンに返す必要はあったのだろうか…?

荒尾では2003年3月に第3回の『全国競馬実況アナウンサーフェスティバル』も開催させてもらった。その時の“目玉企画”は4人のアナウンサーによるリレー実況。2000メートルのレースを、私と、ホッカイドウ競馬の小枝佳代さん、ラジオNIKKEIの宇野和男さん(ともに当時)、ラジオ大阪『ドラマティック競馬』の濱野圭司さんで喋り継いだ。男女混声の4人リレー実況というのは、日本競馬史上、空前絶後のことだと思う。

有明海と島原半島の山並みが望めた風光明媚な競馬場。「五木の子守唄」をアレンジした本馬場入場の行進曲は今も耳に残っている。開設から廃止まで84年にわたって紡がれてきた歴史は途絶えてしまったが、その足跡はBAOO荒尾につつましく残されている。

掲載されている写真のうち、特に表記のないものは2023年1月および6月筆者撮影。

矢野吉彦 

写真 矢野吉彦、いちかんぽ、埼玉県浦和競馬組合

矢野吉彦(やのよしひこ)

1960年10月生まれ。1983年4月文化放送入社。1989年1月からフリーに。
競馬、野球、バドミントンなどの実況を担当。テレビ東京『ウイニング競馬』の出演は1990年4月から続いている。
また、長らく「NARグランプリ表彰式・祝賀パーティー」の司会を務めた後、2022年1月に同グランプリ優秀馬選定委員に就任した。
『週刊競馬ブック』のコラム、競馬史発掘記事などの執筆も手がけ、交通新聞社新書『競馬と鉄道〜あの“競馬場駅”はこうしてできた〜』では2018年度JRA賞馬事文化賞を受賞している。
世界各地の競馬場巡りがライフワークで、訪れた競馬場の数は270か所に及ぶ。