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「鉄人」佐々木竹見 7153勝の足跡(第3回)


クローズアップ

2023.3.13 (月)

NARグランプリ2022
 特別賞受賞記念企画

7000勝目前のアクシデント

佐々木竹見は1978年、81年と、2度の大怪我を乗り越え、通算6000勝を達成したのは、87年2月23日。デビューから28年目、45歳のとき。この年にはテツノカチドキで帝王賞、東京大賞典を制した。

1987年2月23日に地方競馬通算6000勝を達成

通算7000勝のカウントダウンが始まったのは、それから11年後の98年。いよいよその大記録まであと3勝と迫った6月22日、ヒヤリとすることが起こった。

大井競馬第2レース、騎乗したパワースティードは1番人気に支持されていた。スタートすると、右足の鐙が外れた。

「スタートで鐙が外れるのはたまにあることで、それほど慌てるようなことでもないんです。そういうときでも普通は足で探せばすぐに入るんです。ただこのときは、おかしいなあと思って、手で探しても右の鐙がない。まずいなあと思って、3コーナーから4コーナーのところで左の鐙も外した。片方だと危ないから」

あとでわかったことだが、このとき外れた鐙は鞍のうしろ、馬の背に乗ってしまっていた。左の鐙も外したのは、片方の鐙に体重をかけていると、腹帯が回転して危険だから。

スタート後は2番手だったが、佐々木のパワースティードは3コーナー過ぎで、なんと先頭に立った。両方の鐙を外して上体は立ったまま、両腿で馬の背を挟み、直線では左ムチを入れて追ってきた。ゴール前では他馬が迫ったが、クビ差しのいで先頭でゴール。まさに名人芸とでも言うべき騎乗で、これが地方通算6998勝目となった。

ところが、ゴールを過ぎての向正面、佐々木は馬から落ちてしまった。担架で運ばれ心配されたが、軽い脳震盪だけで大事には至らなかった。残りの大井開催と、次の船橋開催は大事をとって騎乗せず。7月1日からの地元川崎開催で、通算7000勝達成のお膳立てが整った。

その初日、佐々木の騎乗は4鞍。第5レースは1番人気で6着。第8レースを2番人気馬で勝って6999勝。第9レースのJRAとの条件交流は5番人気で8着。そして迎えた最終第10レース。カネショウヤシマに騎乗した佐々木は単勝1.3倍の断然人気となった。スタートから先頭に立つと、ゴール前迫った2着馬をクビ差で振り切っての逃げ切り勝ち。ウイニングランでは、ファンからの「タ・ケ・ミ」コールに手を挙げてこたえた。1960年のデビューから39年目、3万7873戦目での達成。世界でも6位(当時)という大記録だった。

このとき地方競馬の通算勝利数で、2位の高橋三郎(大井)は3975勝ですでに引退。3位が桑島孝春(船橋)の3736勝、4位が石崎隆之(船橋)の3488勝。のちに佐々木の通算勝利数を超えることになる的場文男(大井)が通算3000勝に達したのは翌99年12月のこと。7000勝というのは途方もない数字で、当時日本では不滅の記録と思われた。

全国を巡ったラストランシリーズ

佐々木が引退を考え始めたのは、翌99年のこと。区切りの7000勝を達成したからではない。デビュー5年目の1964年に結婚して以来、佐々木を献身的に支えてきた圭子夫人が4月13日に亡くなったことが大きい。

佐々木は調整ルームに入っているときも食堂などの食事は食べず、毎日圭子夫人が弁当を持ってきてくれたという。怪我で入院したときも毎日だった。南関東以外、遠方の競馬場に遠征する際、そのほとんどに圭子夫人が同行し、「お父さんはレースに乗ることだけを考えていればいい」と、鞍や乗馬靴の入ったかばんを持ってくれた。電車で席が空けば、佐々木を先に座らせたという。圭子夫人が亡くなられたあと、代わって娘さんが調整ルームに弁当を持ってきてくれていた。

「本当はもう少し乗りたい気持ちもあったんですが、娘にそこまで無理をさせても、と思って引退を決めました」

2000年、59歳の誕生日(11月3日)を迎えて7日後の11月10日、引退表明記者会見が行われた。

引退を前にした01年には、最初で最後となる中央GIへの騎乗が実現。2月18日のフェブラリーステークスで、大井のナショナルスパイに騎乗。管理する高橋三郎調教師は盟友ともいえる存在。「一度は(騎乗依頼を)断ったんだけど、『最後だから、いいから乗ってよ』って言われてね」。同馬へは初騎乗。互角のスタートから中団7番手あたりを追走したが、直線は伸びず12着でのゴールだった。

同年3月からは、佐々木が全国の競馬場を巡る『佐々木竹見ラストランシリーズ』が企画された。高知、笠松、名古屋、佐賀、宇都宮と巡り、4月23日、船橋の騎乗でアクシデントが起こった。レースは着外で、検量室前に戻って下馬したところで馬に蹴られた。右大腿四頭筋挫滅。骨に影響がなかったのが不幸中の幸いだった。約1カ月の休養ののち、日程を変更してラストランシリーズを再開。6月から、上山、園田、高崎、大井、三条と巡り、最後は地元川崎での引退レース。

当初は5月中旬の川崎開催で引退となるはずが、その予定も2カ月近く遅れ、最後の騎乗となったのは7月3日からの川崎開催。

4日には『佐々木竹見引退記念・全国騎手交流競走』が行われ、南関東4場のトップジョッキーに加え、菅原勲(岩手)、安藤勝己(笠松)、さらにはJRAから岡部幸雄、柴田善臣という面々が出場。第7レースに組まれた第1戦『チャンピオンジョッキー賞』は、“竹見マジック”と言われた逃げての粘り込みで、ゴール前迫った安藤をハナ差でしのいだ。第9レースの第2戦『スーパージョッキー賞』は、直線先頭に立っていた森下博を佐々木がとらえるとともに伸びた野崎武司が3着。川崎の3騎手によるハナ、ハナという接戦を制した。

7月7日、第8レースでは1番人気のサファリワンダフルで勝利。これが地方競馬通算7151勝。結果的に、最後の勝利となった。

ラスト騎乗となったのは、その川崎開催最終日、7月8日の最終レース『ラストラン賞』。騎乗したタイキブレイズは1番人気に支持されたが、中団を追走し、ファンの大声援の中を6着でゴール。ウイニングランとはならなかったが、馬場を1周し、馬上からファンの声援にこたえた。

この日、第7レースのあとウイナーズサークルで引退セレモニーが行われていたが、最終レース後パドックに戻ると、川崎所属騎手たちによる胴上げで、足掛け42年に渡る現役生活を終えた。(つづく、文中敬称略)

斎藤修 

写真 いちかんぽ