2020年2月25日(火)
現役最年長、森下博騎手引退
地方競馬の現役最年長64歳、森下博騎手(川崎)が、3月2~6日の川崎開催を最後に引退する。エスプリシーズで2004年の川崎記念GIを制するなど地方通算2675勝(2月18日現在)。騎手として活躍した47年間を振り返り、今後のことについてもうかがった。
最年長勝利記録、63歳8カ月27日
森下騎手は、昨年(2019年)1月31日、川崎第11レースの多摩川オープンをトキノパイレーツで制し、地方競馬における最年長勝利記録を更新(1973年4月以降の記録)。2012年5月6日に山中利夫騎手(金沢・引退)が記録した62歳9カ月25日を約11カ月更新する、63歳8カ月27日での勝利という記録を達成した。
同時に森下騎手は、レースに騎乗するごとに地方競馬における最年長騎乗記録も更新し続けている。
記録といえば、通算最多勝記録を更新し続けている的場文男騎手(大井)と森下騎手は地方競馬教養センターの同期で、デビューしたのもほぼ同じ時期だが、森下騎手のほうが1年4カ月ほど生まれが早い。それゆえ、最年長勝利記録、最年長騎乗記録は、的場騎手が追いかけるかたちとなっている。
森下騎手が最年長勝利記録を更新したトキノパイレーツは、田中準市オーナーが「森下騎手に重賞を勝たせたい」として、中央2勝でユニコーンステークスGIII・6着などの素質馬ながら、2018年の3歳秋に川崎(八木正喜厩舎)に移籍させた馬。
トキノパイレーツが移籍してきたとき、森下騎手は怪我のため休養中。町田直希騎手が手綱をとり、初戦の準重賞を制し、2戦目の戸塚記念で2着。たしかに重賞を獲れる器と期待された。
森下騎手が初めて手綱をとったのは移籍3戦目となった12月18日の師走特別(A2B1)で4着。いよいよ森下騎手で重賞に臨んだ年明け(2019年)の報知オールスターカップは9着。そして森下騎手での3戦目が、記録更新となった多摩川オープンだった。
いよいよトキノパイレーツで重賞制覇へ、と期待は高まった。
ところが4月5日、川崎第2レースの3歳特選・勿忘草(わすれなぐさ)賞で落馬。騎乗したトキノプラチナ(オーナーは同じ田中準市氏)は1番人気に支持されたが、3コーナーを回るところで併走していた馬が外に膨れ、それに触れてバランスを崩した。パトロール映像を見ると、馬が前につんのめるような態勢で投げ出されていた。第12胸椎圧迫骨折との診断。戦列に復帰したのは約半年ののち、10月23日だった。
その間、再び町田騎手が騎乗したトキノパイレーツは、8月22日のスパーキングサマーカップで重賞初勝利を果たしていた。
的場騎手が保持している重賞最年長勝利記録の更新はならなかった。
馬との出会い、名調教師との出会い
森下騎手は1955(昭和30)年5月4日生まれの埼玉県出身。馬や競馬とは関係のない家族のもとで育った。
馬との出会いは中学時代、長野県にキャンプに行ったときのことだった。
「観光用の馬に乗ったらおもしろくて、持って行った小遣いを全部使って、最後はひとりで乗れるようになった」
ただその経験が直接、騎手や競馬につながることはなかった。騎手へと導かれるには、人との出会いがあった。
「画家でもあった中学の美術の先生が、青森のタイヘイ牧場の場長の弟さんだった。(のちに所属する川崎の)井上宥藏先生が『下乗りになるような子はいないか』とその牧場に頼んで、それで弟の美術の先生にも話があったんだと思います。『馬は好きか?』って聞かれて、騎手の話が出てきた。それからテレビで競馬を見るようになって、(美術の先生に)『騎手をやりたい』と伝えたら、川崎から井上先生が家までスカウトに来た。それで弟子入りすることになりました」
井上宥藏調教師といえば、川崎を代表する調教師。管理した代表馬には、1974年全日本アラブ大賞典(大井)を制したポートスーダン、大井3000メートルの3分8秒6が不滅のレコードとして残る76年東京大賞典のフアインポート、85年楠賞全日本アラブ優駿(園田)のイソナンブ、98年桜花賞(浦和)のダイアモンドコアなどがいる。96年春の叙勲では黄綬褒章を授与された。
その出会いが、森下騎手の活躍を決定づけたと言ってもいいかもしれない。
当時の騎手志望者は、まず厩舎に入って下乗りとして働いたあとに地方競馬教養センターに入所するということがめずらしくなかった。森下騎手は中学卒業後、井上調教師のもとで1年半ほど下乗りとして働きながら教えを受け、地方競馬教養センターへの入所は72年10月だった。
昭和の時代、普通の中学校などでも、悪さをすれば先生のゲンコツやビンタは当り前。暴力ではなく“しつけ”と言われた。当然のことながら教養センターはさらに厳しく、森下騎手は入所した初日から鉄拳をくらったという。
「同部屋になった兵庫(所属予定)のヤツの口が悪いなと思ってケンカしてたら、教官に見つかって『何ケンカしてんだ!』って、ボコボコにされました(笑)」
当時の長期騎手課程(森下騎手は第20期)は1年間。73年10月、正式に川崎・井上宥藏厩舎所属の騎手となった。
初騎乗初勝利、重賞も初騎乗で勝利
「今の僕があるのは、井上先生のところに入ったおかげです。厩舎に恵まれた」と森下騎手。73年11月7日、川崎第2レース。初騎乗を勝利で飾った。
「デビュー戦から本命馬に乗せてもらいました。クインミツルという馬で、これは忘れない。先輩の竹島(春三)さんがゲートまで来てくれて。師匠の指示は、『はじめは馬が教えてくれるから、馬に聞いて行け』って。楽勝でした」
今と違って師弟関係がはっきりしていた時代。まず自厩舎の馬に乗せてもらえるかどうか。厩舎によっては新人にはなかなか騎乗馬が巡ってこないということもめずらしくない時代だったが……。
「ウチの先生は、『新人でもどんどん乗せる』と言って乗せてくれました。先輩騎手には、竹島春三さん、長谷川茂さん、佐々木國廣さんがいましたが、騎乗馬を振り分けてくれて、乗れる馬には全部乗せてくれた。先輩の時代からそうだったようです。そのかわり厳しかったよ。朝はまず厩舎に行ったら下駄箱の中を見て、先生の靴が汚れていたら靴磨きから。調教が終わって帰りには、廊下で正座してお説教。ステッキで叩かれる、ビール瓶や灰皿が飛んでくる。レースから上がってきたときには、よくブッとばされた。厳しかったけど、面倒見はよかった」
森下騎手は、重賞も初騎乗で勝利。デビューからまだ2年も経たない75年9月22日、キヨフジ記念(現・エンプレス杯)を、すでに調教師になっていた兄弟子・佐々木國廣厩舎のシヤンタンで制した。
「この馬で重賞に乗ってみたいと思っていて、『乗りたいか?』って言われて、減量騎手では重賞に乗れないので、減量を返上して乗せてもらいました。最後は競り合いになって、アタマ差くらいだったのかな、勝ったんですよ」
師匠へのはなむけ、ダイアモンドコア
思い出に残る馬として、まずは83年にデビューしたグレイスタイザンを挙げた。
「初めて馬を持ちたいというオーナーがいるからって(井上)先生に呼ばれて、その2頭のうち『好きなほうを選べ』って言われて、いい顔してるし、バランスもいい、走ると思って牝馬の方を選んだ。(その馬は)兄弟子だった佐々木國廣厩舎の所属になって、デビュー戦から乗せてもらいました。東京3歳優駿牝馬(現・東京2歳優駿牝馬)では、初めて持った馬が重賞に出るということで、馬主さんは舞い上がっていましたね。それで勝って、ものすごく喜んでくれた。さらに桜花賞は好位からの抜け出し、息を入れて走る馬だから距離は大丈夫だと思って、関東オークスも勝った。ただそのあとは勝てませんでした」
道営所属として84年の全日本アラブ争覇(アラブ系2歳馬の全国交流重賞として川崎で行われていた)を勝ったイソナンブは、その後、井上厩舎に移籍。森下騎手が主戦となり、園田の楠賞全日本アラブ優駿を制した。
「園田競馬場は、そのときが初めて。何日か前から園田に入って、追切りから乗った。重賞のときはよくイメージトレーニングをする。休憩中とか、寝てるときとか。夢に出てきて、それが正夢になったことがけっこうある。このときは、そのイメージより仕掛けが早かったけど、それでも勝った」
森下騎手が初めて年間100勝を達成したのは、デビュー19年目の92年のこと。そして“交流元年”と言われたのが95年。森下騎手が充実期を迎えたその時期に、交流の時代がやってきた。
「当時でも今でも(中央との)交流重賞を勝つのは難しいから、それを勝つのはやっぱりうれしいよね。初めて勝ったのはエフテーサッチ(98年船橋・マリーンカップ)。逃げ馬で、ゴール前、1番人気の横山典(メジロランバダ)が、あっ!来たな、と思ったらギリギリ、ハナ差で勝ってた。カガヤキローマンの東京盃(98年、前年に石崎隆之騎手で勝っていて馬は連覇)もすごく嬉しかったね。乗替りになった経緯は覚えてないけど。2、3番手につけていって、直線抜け出し。外から柴田善臣のワシントンカラーが差してきたけど、半馬身、これもギリギリだった」
そして森下騎手にとって忘れられない1頭が、97年に東京3歳優駿牝馬(現・東京2歳優駿牝馬)、翌年に桜花賞(浦和)を制したダイアモンドコアだろう。師匠である井上調教師の管理馬では、前述のとおりイソナンブで楠賞全日本アラブ優駿を制していたが、森下騎手で南関東の重賞を制したのはダイアモンドコアが唯一だった。
新馬戦は2着だったものの、2戦目の初勝利から3連勝目が東京3歳優駿牝馬。年明け初戦の準重賞・桃花賞を制し、単勝1.1倍の断然人気で臨んだ桜花賞は、その後関東オークスを制するシバノコトエに7馬身差をつける圧勝だった。
エスプリシーズで制した川崎記念
森下騎手が一番の思い出と語るのが、2004年の川崎記念を制したエスプリシーズ。当初は今野忠成騎手の手綱で、デビューから3連勝。しかしニューイヤーカップ3着、京浜盃2着、当時は準重賞だった雲取賞を勝ったが、羽田盃では4着。重賞タイトルには惜しいところで手が届かなかった。そして森下騎手に乗替りとなった初戦が、当時は3歳の12月に行われていた東京湾カップ。
「このときは絶対勝てると思ったね。今ちゃん(今野騎手)で勝てなかったときは馬の調子があまりよくなくて、だからなんで乗替りになったのかと思った。東京湾カップの前の調教に乗って、このときも『勝てるよ』って宣言して勝った」
明けて4歳となって4戦目の船橋記念(当時は1800メートル)で重賞2勝目を挙げると、当時の高崎競馬場で行われていたGIIIの群馬記念でダートグレード初挑戦。
「出遅れる馬なのでそれも計算して、『ちゃんと乗れば交流のGIIIくらいなら勝てると思いますよ』と、オーナーに進言しての出走。ゲートで尾持ちをしてもらって、それでも出遅れ、結果は3着。本当は中央に使いに行きたかったんだけど、中央は尾持ちができないから使えなかった。その走りからして、芝ならもっと走ったと思う」
秋には短距離路線に転じ、東京盃3着、JBCスプリント(大井)5着と好走した。そして当時12月に行われていた京成盃グランドマイラーズでは、ナイキアディライト、トーシンブリザード、ジーナフォンテンら、ダートグレード勝ち馬を相手に4馬身差の楽勝。明けて5歳初戦、地元川崎の報知オールスターカップには、いよいよ川崎記念を見据えての出走だった。
「このときは軽めに六分くらいの追い切りしかやらなかった。武井(榮一)調教師からは『なんで(強めに)やらないんだ』って言われて喧嘩です。それでも『これで勝てないようだったら川崎記念は勝負にならない』って言い返した。4コーナー大外を回って、馬なりのまま楽勝(2着に7馬身差)。これで川崎記念でも、もしかしたらって思ったね。そうしたら、川崎記念のときは厩舎の若い衆がびっちり仕上げてきた」
迎えた川崎記念。1番人気は、東京大賞典を勝ったスターキングマン。さらにその2着だった大井のコアレスハンター、2年前に川崎記念を制していたリージェントブラフ、前年の川崎記念の覇者カネツフルーヴらが出走していたが、ダートグレード未勝利でもエスプリシーズへの期待は大きく2番人気に支持された。
「松永幹夫のカネツフルーヴが逃げて、3番手から。4コーナーでそれをとらえに行って、武豊のスターキングマンがうしろから来てるなと思って様子を見ていたんだけど、手応えがよかったから早めに放したら、ビューンと伸びて楽勝だった」
2着スターキングマンに4馬身差、2分12秒8はコースレコード(当時)だった。
「東京ダービーを勝てなかったし、川崎記念でGIを勝てたことは忘れられない。ただこれは自分だけで勝ったわけでなく、厩舎関係者のおかげだね」
森下騎手は、その川崎記念が最後の重賞タイトルとなっている。
馬が好き、馬に乗ることが好き
騎手として、最後の川崎開催を前にした心境をうかがった。
「この年まで乗ってきたのは、馬に乗ることが好きだから。ただ思うように体がきかなくなった。去年(19年4月5日)の落馬が致命傷だったね。その前の年にも腰を悪くして足にもきて、4カ月くらい休んだことがあった。復帰したと思ったら、あの落馬でまた腰を打った。それで(騎手を続けるのは)厳しくなった。ただ、やめることに悔いはない。体がなんともなければもっと乗りたい気持ちはあるけど、自分が思うように乗れなければ迷惑をかけることになる。もう少し早くやめたほうがよかったのかもしれないけど、それでも乗りたい思いのほうが強くてやってきた。だから今でも、足腰が痛いけれども、調教には7、8頭、乗っています。馬が好きだからね」
気になるのは、騎手を引退したあとのこと。
「騎手をやめても馬にたずさわっていきたい。調教師にはなりたいとは思わない。さすがに、この年では苦労するだけだから。川崎の厩舎にいると思いますよ。ほかのところには行きたくないから、川崎で厩務員をやるかもしれません。馬が好きだから、動けるうちはやろうかなと」
3月2~6日の川崎開催で、森下騎手の最年長騎乗記録の更新が止まることになるが、それが最年長勝利の記録更新になることを期待したい。